『プーシキン』, 1827
オレスト・キプレンスキー/トレチャコフ美術館このロシアの偉大な作家が生活で特に不自由をしたというわけではない。とはいえ彼は、運命と人々は甚だ不公正で、自分には苦労の種が尽きないと感じていた。幼少期は家族に愛されず、青年時代以降はロシアの現状を案じて自由思想的であからさまに自由思想の詩を書き、その結果流刑となった。初めは南方のモルドバおよびオデッサに、後にはプスコフ州の自身の所領(モスクワから630キロメートル西)に送られた。
そこでも彼はほとんどあらゆることに苦しんだ。不幸な愛。友人や首都との隔絶。皇帝に対する蜂起に参加できなかったこと。蜂起参加者の死刑と流刑――。
その後彼は、借金と宮中での屈辱的に低い官位ゆえに結婚が成立しなかったことを悩んだ。結婚後は嫉妬に苦しんだ。だが本当の悲劇が彼を見舞ったのは人生の最後だった。妻の愛人と推測される男に決闘を挑んで致命傷を負った彼は、ロシアの知識層に惜しまれながら、3日のうちに死去した。享年37歳。
プーシキンの人生の悲劇と死を素晴らしい詩の中で語ったのが、もう一人の偉大な詩人、レールモントフだ。
レールモントフ自身も、プーシキン以上にロマンチックな英雄だった。病気がちな孤児として祖母に育てられた彼は、自分と外界とを対置させ、自分に対して外界が不公正であると感じ、自分は仲間外れだと感じていた。検閲と秘密警察に悩まされ、青い制服を着た彼らを憎み、ロシアの裏切り者と見なした。
もちろん、彼の大きな苦しみも恋愛が原因だった。レールモントフは外見が特に魅力的ということもなく、性格もかなり醜悪だったため、異性との関係はうまくいかなかった。憂鬱と絶望が彼の日常的な精神状態だった。世間では彼は根っからの人間嫌いとしてふるまい、結果として自身の毒舌の責任を取ることになった。知人のニコライ・マルティノフを女性の前で侮辱した彼は、マルティノフに決闘を挑まれた。そして胸を撃ち抜かれ、この世を去ったのである。享年27歳。
不良詩人(彼は自分をそう呼んでいた)の胸を刺すような詩を読めば、彼が命を燃やす情熱人だったことがすぐに分かるだろう。それゆえ、彼はあらゆることに苦しんだ。女性とすぐに恋に落ちるが冷めやすく、彼女らを捨てるのが常だった。上京して捨てた故郷の村々とオカ川の風景が彼の涙を誘った。高齢の両親を置いてきてしまったこともひどく後悔した。
彼は酒に溺れて暴れるようになり、当局も彼の精神状態を真剣に危ぶんで尾行を付けるようになった。これで彼の苦悩は臨界点に達した。エセーニンは影のようなものに後を付けられていることを意識していたが、酒に酔った状態では、これが内務人民委員部(NKVD)の職員なのか、自分自身の「暗い」一面なのか、判別できなかった。この苦痛は「黒い人」という詩に表れている。1925年、詩人はレニングラードのホテル「アングレテール」の一室で首を吊っているのが見つかった。机には血で書かれた詩が残されていた。
公式発表は自殺だが、NKVD職員が彼を殺して自殺を偽装した可能性をめぐって現在まで論争が絶えない。部屋には物や家具が散乱しており、詩人の顔には奇妙な傷やあざがあった。
ソビエト時代初期には、芸術家の間で自殺は稀ではなかった。自由な新生活の代わりに独裁、NKVD、検閲、銃殺の時代が到来したことが分かるにつれ、芸術家たちは自分たちの革命理想が破綻したことに耐えられなくなった。
その一人がマヤコフスキーだ。しかも、彼はリーリャ、オシプ・ブリークと三角関係にあり、私生活が定まらないことに悩んでいた。リーリャは魔女とさえ呼ばれ、彼女が詩人を追い詰めたのだと考えられていた。彼女は気まぐれで口うるさい性格だった(そして86歳まで生きた)。リーリャはマヤコフスキーの栄光に吸い付いていると言われた。彼は彼女に愛を打ち明け、痛みに満ちた詩を捧げた。心はばらばらに砕けていた。だがリーリャは金をせがむばかりだった。
1930年、栄光の絶頂にあったプロレタリア作家は、ルビャンカのNKVD本部の正面にある自室で拳銃自殺した。現在そこにはマヤコフスキー博物館がある。遺書で自分の死を誰のせいにもしないことを請い、資料コレクションをブリーク夫妻に遺産として残した。ところで、マヤコフスキーもまたNKVDに殺されたのだと考える人もいた。彼らによれば、殺人の実行役はヴェロニカ・ポロンスカヤだった。彼女は詩人と会う予定があり、遺体の第一発見者でもあった。
裕福なユダヤ人家庭に生まれたオシプは、家族の零落に苦しみ、ユダヤ系という烙印も彼に少なからぬ苦痛を与えていた。ロシアの大学で学ぶ機会を得るため、キリスト教に改宗せざるを得なかった(初めヨーロッパで学んだが、そこで学業を続けさせるだけの金は両親にはなかった)。
マンデリシュタームは耳と鼻が大きく、容姿端麗とは言えなかったが、内面はまさしくロマンチックな英雄であり、古典古代のファンだった。外面と内面の不一致と、それに対する周囲の嘲笑が、彼を大いに悲嘆させた。
より深刻な苦悩が彼を襲ったのは、スターリン時代だった。一時は有名詩人になりながら、完全に忘却されてしまったのだ。彼の「デリケートな」詩にソビエトの検閲は満足せず、彼の非愛国的な作品は出版されなくなった。これは詩人にとって死に等しかった。おまけに彼は生活資金を失い、翻訳家として慎ましい稼ぎでどうにか生きなければならなかった。
絶望の淵にあった彼は、1933年に致命的な過ちを犯した。「我々は足元に地を感ぜず生きる」という風刺詩を書き、その中でスターリンをクレムリンの山岳人と呼び(教養の乏しいことを暗示している)、知人に配布した。この時はヴォロネジへの流刑で済んだ。自殺を思いとどまったのは、妻のナデジダ・ヤコヴレナのおかげだった。
粛清の嵐が吹き荒れた1938年に彼の過去の行いが顧みられ、反ソ扇動の罪に問われた。「卑猥で中傷的」な詩を書いたかどで懲役5年の判決を受け、グラーグに収容されることになった。適応力がなく健康状態も悪かったマンデリシュタームは、極東の収容所へ護送中に死亡した。公式発表では死因は発疹チフスだ。
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