ソ連時代の禁書10冊:危うく葬られそうになった世紀の傑作も

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 現在、この10冊の文学作品は、傑作として広く認められており、これらを抜きにしたロシア文学など考えられない。しかし、かつては出版が許可されず、コピーや地下出版で非合法に拡散された。

 ソ連の出版社はすべて国有であって、あらゆる著作は印刷前に事前検閲を受けなければならなかった。検閲は、「文学・出版事業管理局」(略称「グラヴリト」)が行った。これは要するに、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に出てくる「真実省」のようなものだ。

 独裁者ヨシフ・スターリンの時代には、作品が「誤って」報道機関に流出すると、事後に犯罪とみなされ、著者と検閲者は深刻な被害を受けかねなかった。

 しかし、多くの作家によると、スターリン時代の条件は分かりやすい面もあり、極端な場合には、独裁者自身が「曖昧な」著者を一刀両断する批評を行った。

 ところが1960年代になると、検閲の恣意性は不条理の域に達する。その意味で、この時期は多くの人にとってより恐るべきものであり、作家たちを絶望に追い込んだ。

 本の出版不許可には多くの理由があった。すなわち、検閲によれば当該の本は、ソ連体制への批判を含んでいる(仮に寓意的に表現され、ベールに包まれていても)、愛国心が不十分である、ソ連人の価値観に適合しない、云々。

 さらに、宗教の肯定的なイメージや、様々な歴史的出来事の非ソビエト的な解釈が含まれていてはならなかった。

 なお、ソ連から亡命した作家すべての作品が出版されたわけではない。彼らは祖国の敵にして裏切り者とみなされたから。

 以下に、ソ連崩壊前後まで出版されなかった本を何冊か挙げてみよう。

 1.イワン・ブーニン『呪われた日々』
(執筆は1918~20年、ソ連での出版は1988年)

 1917年、ロシア革命が起きたとき、将来のノーベル賞作家ブーニンは、モスクワに住んでいた。彼はボリシェヴィキの「クーデター」を支持せず、白軍に同情し、義勇兵として前線に赴こうとしたほどだ。1920年に彼はフランスに亡命した。

 革命と内戦の時期に蔓延していた混乱と不安への恐怖を、そして自分のボリシェヴィキ観をブーニンは日記に記した。これらの記述に基づいて、彼は有名な『呪われた日々』を編んだ。それは直ちに1925年にパリで出版されたが、ソ連ではこの「反ソビエト的な」著作は日の目を見ることはできなかった。

 ブーニンの文学作品のいくつかは、スターリンの死後、ソ連で小さな部数で出たが、ボリシェヴィキと革命への厳しい批判を含む『呪われた日々』は、ペレストロイカまで禁書であり、ようやく1988年に、検閲でいくつかの個所が「修正」されたうえで刊行された。完全版の出版は、ソ連崩壊まで間もない1990年のことだ。

 日本語訳:『ブーニン作品集5 呪われた日々 チェーホフのこと』佐藤祥子・尾家順子・利府佳名子訳、群像社、2003年。

 2.エヴゲニー・ザミャーチン『われら』
(執筆は1920年、ソ連での出版は1988年)

 ザミャーチンの幻想的なディストピア小説は、ジョージ・オーウェルとオルダス・ハクスリーの双方に強い影響を与えた。『1984年』と『すばらしい新世界』は、いずれも『われら』の後に書かれている。しかし、これらの小説のいずれも、ソ連での出版は許されなかった。

『われら』は、ソ連の「戦時共産主義」を彷彿とさせる全体主義国家を描く。そこでは、人間の生活はすべて――性生活さえも――、当局の管理下に置かれている。ソ連の検閲官は、この作品にソ連体制への嘲笑を見て取り(それは正しかった)、内戦中の出来事への、ボリシェヴィキ政権には不愉快な仄めかしを見つけた。

 当局はザミャーチンを、他の一連の「反ソビエト的な」作家たちとともに国外追放にしたかったが、その後、「追って沙汰をするまで」とりあえず拘束ということになった。しかしザミャーチンは、友人たちの請願のおかげで、しばらくして釈放された。

 ザミャーチンは、逮捕される前に原稿を西側に送り、アメリカで、次いでヨーロッパで出版された。故国では作家は、この「裏切り」のために迫害され、1931年に彼自身、スターリンに出国の許しを求めた。

 ここで再び、影響力のある人々が助けの手を差し伸べる。スターリンのお気に入りであった作家マクシム・ゴーリキーは、『われら』の作者がソ連から出国できるよう請願した。1931年から1937年に亡くなるまで、ザミャーチンは、パリに住んでいた。

『われら』がソ連で刊行されたのはようやく1988年のことだ。

 日本語訳:

 『われら』(川端香男里訳)、岩波文庫、1992年。

 『われら』(小笠原豊樹訳)、集英社文庫、2018年。

 『われら』(松下隆志訳)、光文社古典新訳文庫、2019年。

 3.ミハイル・ブルガーコフ『犬の心臓』
(執筆は1925年、ソ連での出版は1987年)

 ロシアの読者はブルガーコフを熱愛しているが、その作品のほとんどは、彼の死後に出版されたものだ。1960年代の「雪解け」の時代には、検閲が著しく介入し、歪曲、削除がなされたとはいいながら、『白衛軍』と『巨匠とマリガリータ』が公に出版された。

 だが、『犬の心臓』となると話は別で、ブルガーコフは、この本を「グラヴリト」に提出しないように勧められたほどだった。

(この作品では、一匹の野良犬が、手術の後で嫌らしい「プロレタリアート」のシャリクに生まれ変わる。このシャリクがあからさまに、社会の下層になぞらえられているのだ。底辺の貧民はいまや国の権力を握り、より発展した社会階層を迫害している、というわけだ)。

 しかし、ブルガーコフはこの作品を「グラヴリト」に見せてしまった。その結果もちろん、『犬の心臓』は、鋭い政治風刺のせいで刊行不可能とされる。

 原稿は1926年に没収されたが、またもマクシム・ゴーリキーの要請により、しばらく後に著者に返却された。間もなくそれは地下出版(サミズダート)で出回り、大変な人気を博した。

 1987年にやっと『犬の心臓』は、ソ連で初めて出版され、1988年には映画化。これは大ヒットとなり、そこから多くのアフォリズム、諺が生まれた。

 日本語訳:

 『犬の心臓』 (水野忠夫訳)、河出書房新社、2012年。

 『犬の心臓・運命の卵』(増本浩子訳)、新潮文庫、2015年。

 4.ボリス・パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』
(執筆は1945~55年、ソ連での出版は1988年)

 ロシアの革命と内戦について多面的、客観的に物語るこの小説は、20世紀ロシア文学の(いや、20世紀だけではない)最高傑作の一つだ。『ドクトル・ジバゴ』はパステルナークにノーベル賞をもたらしたが、と同時にソ連で、正真正銘の迫害を引き起こした。

 文学のすべての新作が発表されていた一連の「厚い雑誌」(つまり総合文芸誌)が、『ドクトル・ジバゴ』の刊行を拒否すると、パステルナークは小説をイタリアに送り、そこで刊行された(最近、社会主義諸国でのこの小説の出版にCIA〈米中央情報局〉が関与していたことを証明する文書が機密解除された)。その後パステルナークは、故国で「裏切り者」と宣言され、迫害が始まった。

「ノーヴイ・ミール(新世界)」誌の編集委員会は、公開書簡でこう述べた。この書は十月革命を、そして「この革命とソ連における社会主義建設を実現した人々」を中傷している、と。 ノーベル賞は、「政治的アクション」として切り捨てられた。 

「真にソビエト的な」編集者たちの意見によると、パステルナークへのノーベル賞授与は、「小説をめぐる反ソビエトの誇大宣伝」に関係しており、「パステルナークの作品の文学的特質」を反映するものではない、というのだった。

 詩人の迫害は、一般の勤労者も動員されるほどの規模に達した。党大会での告発演説の一つをもじったアフォリズムも生まれた。「私はパステルナークを読んでいませんが、非難します」。

 こうしたキャンペーンの結果、パステルナークはソ連から追放すると脅されたため、受賞を辞退せざるを得なくなった。

『ドクトル・ジバゴ』がソ連で出版されたのはやっと1988年のこと。皮肉なことに、まさにあの「ノーヴイ・ミール(新世界)」誌上でだった。

 日本語訳:

 江川卓訳『ドクトル・ジバゴ 上・下』、時事通信社、1980年/新潮文庫、1989年。

 工藤正廣訳『ドクトル・ジヴァゴ』、未知谷、2013年。

 5.ワシリー・グロスマン、イリヤ・エレンブルグ『黒い本』
(執筆は1943~45年、ソ連での出版は2015年)

 ポーランドのトレブリンカは、ナチス・ドイツの強制収容所だが、ソ連軍がこれを解放した後、グロスマンは従軍記者としてここを最初に訪れた人物の一人だった。彼のルポ『トレブリンカの地獄』は、ホロコーストに関するソ連初の出版物となった。

 グロスマンにとって、このトピックは他人事ではなかった。彼の母は、ベルディーチェフでのユダヤ人大量処刑で亡くなっていたからだ。

 グロスマンは、もう一人の従軍記者・作家のイリヤ・エレンブルグとともに、ホロコーストに関する記録を集め、現場で見聞し、それを『黒い本』にまとめた。

 しかしソ連では、この本を刊行しようとしなかった。ユダヤ人の虐殺というテーマを突出させないためだ。特定の民族に焦点を当てる意味はない、ナチスの犯罪全般とソ連国民全体の苦しみについて書くべきだ、というのであった。

 1947年にこの本は、米国で英語版が出され、ロシア語版は1980年に初めてイスラエルで出版されたが、それも完全版ではなかった。ロシアで完全版が出たのは実に2015年のことだ!

 日本語訳:ワシーリー・グロスマン『トレブリンカの地獄――ワシーリー・グロスマン前期作品集』(赤尾 光春・中村 唯史 訳)、みすず書房、2017年。

 6.ワシリー・グロスマン『人生と運命』
(執筆は1950~59年、ソ連での出版は1988年)

 この小説の創作過程そのものが、波乱万丈のブロックバスター映画のようなところがある。多くの点で、この本はグロスマン自身の経歴、体験に基づいていた。

『人生と運命』においてグロスマンは、スターリングラードの戦いについて、従軍記者として探訪した底なしの深淵、避難生活、粛清について、そして弾圧、粛清された人間から近親者や隣人がいかに離反するかについて描いている。

 グロスマンのこの叙事詩は、今では「20世紀の『戦争と平和』」と呼ばれているが、ソ連ではイデオロギー的に有害だと考えられていた。スターリン体制への批判があまりに多すぎるからだ(グロスマンはスターリンをヒトラーと比較してさえいる)。グロスマンはこの本の刊行を拒否されたばかりか、秘密警察「KGB」は、作家の家宅捜索を行い、「危険な」原稿を押収した。

 幸いなことに、グロスマンの友人が原稿のコピーを持っており、彼はそれを外国に送った。こうして、この小説は1980年にスイスで出版される。ソ連での刊行は、やっとペレストロイカ期の1988年だが、一部削除されていた。完全版が出たのは、ソ連崩壊の前年の1990年だ。

 2013年、FSB(KGBの後継機関である「ロシア連邦保安庁」の略称)は、小説の原稿を正式にロシア文化省に引き渡した。

 日本語訳:『人生と運命』、全3巻、齋藤紘一訳、みすず書房、2012年。

 7.ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』
(執筆は1953年で、英語で書かれている。ソ連での出版は1989年)

 大人の男と未成年の少女との禁断の愛の物語は、多くの国で発禁となった。フランス、イギリス、そしてアメリカでさえ、いくつかの出版社は『ロリータ』の出版を拒否した。

 ソ連では、ナボコフの作品は、『ロリータ』に限らずまったく出されなかった。彼は、ボリシェヴィキに熱心に反対した中道政治家の息子だったから。ナボコフ一家全員が革命後にロシアを去っており、彼らは「裏切り者」とみなされた。

 それでも、ナボコフの作品はサミズダート(地下出版)で広まったので、知識人はそれらに接する機会はあった。そして、1950〜60年代には、学術文献で、ナボコフの個々の作品や評論が引用され始める(詩人アレクサンドル・プーシキンの韻文小説『エフゲニー・オネーギン』に関する評論を含む。ナボコフはこの作品を英訳している)。

 ナボコフ自身は、『ロリータ』がソ連で出版されるとは思っていなかった。彼は1960年代に自ら行ったロシア語訳のあとがきで、こう書いている。

「私の故国では、検閲が『ロリータ』を見逃すような政治体制を想像するのは難しい。それが、自由主義的な政権であれ、全体主義的なそれであれ」

 にもかかわらず『ロリータ』はソ連でも公に出版された。もっとも、やっと1989になってだが。

 日本語訳:ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ 魅惑者』(若島正・後藤篤訳)、新潮社(ナボコフ・コレクション5)、2019年。

 8.アレクサンドル・ソルジェニーツィン『収容所群島』
(執筆は1958~68年。79年まで加筆。ソ連での出版は1988年) 

 ソルジェニーツィンのおかげで、ソ連のマスコミは初めて強制収容所について語り始めた。弾圧、粛清は、多数の家族に影響を及ぼし、何万もの人々が収監されていた。しかし長年の間、囚人の置かれたリアルな条件、飢え、病気、耐え難い労働は黙殺されていた。

 1968年、「ノーヴイ・ミール」誌に、まさに奇跡的に『イワン・デニーソヴィチの一日』が現れた。これは、8年間を収容所で過ごしたソルジェニーツィンの個人的体験に基づいていた。

 ソルジェニーツィンはその後の生活を、ソ連の懲罰システムと粛清の研究に捧げ、ソ連全土の収容所に関する情報を集め、収容所がどのように設けられたのか、誰が強制労働させられていたのかを描き出した。これらはすべて『収容所群島』に盛り込まれる。

 ソルジェニーツィンは、ソ連の主要な反体制派の一人であり、自由の戦士であり、検閲の熱烈な反対者であった。KGBは彼を注意深く監視し、ついに『収容所群島』の原稿を発見する。

 しかしソルジェニーツィンは、その時までに既に西側に原稿を送ることに成功していた。

『収容所群島』は、1973年にパリで出版される。ソルジェニーツィンは祖国の裏切り者とされ、市民権を奪われて、出国を余儀なくされた。

 1989年、『収容所群島』のいくつかの章がノーヴイ・ミール誌に掲載。連邦崩壊後の1990年代に全文が刊行された。その後、ソルジェニーツィンに市民権が返され、彼はロシアに帰還した。

 日本語訳:ソルジェニーツィン 『収容所群島』(木村浩訳)、新潮文庫、1975-1978年。

 9.エヴゲニヤ・ギンズブルグ『明るい夜暗い昼(原題:険しい道のり)』
(執筆は1967年、ソ連での出版は1988年)

 著者は自分の本を「個人崇拝の時代の記録」と呼んでいる。スターリン体制の恐ろしさを明らかにする多くの著作と同様に、ギンズブルグの本は最初、外国で出版され、やっと1988年にソ連に登場した。

 ギンズブルグは、1937年の「大粛清」に際して逮捕され、10年間を収容所で過ごした。この自伝的な小説は、尋問中の暴行や、いかに刑吏らが事件を偽造し、犯してもいない罪を自白させたか、家族全員を逮捕すると言って脅したか、等々が語られている。

 ギンズブルグはまた、相互の密告の蔓延についても書いている。隣人が隣人を密告し、秘密警察NKVDの慈悲を当てにするが、今度は自分が投獄される。密告が不十分であるという理由で、あるいは他の人間から密告されたために…。

 女子収容所の描写はとりわけ恐ろしい。制服を着た男が、同胞の女性たちを、記憶を失い気が狂うほど殴打する。

 この本に基づいて、映画「Within the Whirlwind(旋風の中)」(主演エミリー・ワトソン)が製作され、2009年に公開された。また、1989年から今日にいたるまで30年にわたり、モスクワの劇場「ソヴレメンニク(現代人)」で、「険しい道のり」がロングランを続けている。

 日本語訳:

ギンズブルグ『明るい夜暗い昼―女性たちのソ連強制収容所』中田甫(訳)、集英社、1990年。

ギンズブルグ『明るい夜暗い昼 続』中田甫(訳)、集英社、1990年。

ギンズブルグ『明るい夜暗い昼 続々』中田甫(訳)、集英社、1990年。

 10.「銀の時代」の詩人たちの詩集

 この時期、多くの詩人たちの運命は悲しいものだった。共産党と「グラヴリト」は愛国的な詩を要求した。ヒロイズムを発揮するソ連人民、ソ連での仕事と幸せな生活…。こういったものについての詩だ。

 抒情、愛、苦しみ、こんなものはすべて、出版を許されなかった。ソ連に敵対的で、「資本主義的」で、ソ連人民にはまったく不必要なものと決めつけられたからだ。

 亡命したジナイーダ・ギッピウスやドミトリー・メレジコフスキーも出版されなかった。1960年代になってようやく、コンスタンチン・バリモントとマリーナ・ツベターエワの詩から一部が選ばれ、刊行され始めた。粛清されたニコライ・グミリョフの詩が出たのはようやく1986年。1989年にウラディスラフ・ホダセーヴィチの前衛的な詩が出たときは大事件となった。かつて非常な人気を博した「農村詩人」、セルゲイ・エセーニンの詩の多くも、長い間出版されなかった。

 多くの詩人は、詩を書いたら机にしまい込まざるを得なかったが、いくつもの詩を机の中に保存するのは危険だった。

 そのため、伝えられるところによると、アンナ・アフマートワは詩を紙片に書き留め、友人に暗記させてから、紙を焼いた。その友人も、自分の友人たちに同じことをした。こうして、詩が広まっていったという。このほか、詩集は地下出版によっても積極的に拡散された。

 多数の詩人が迫害、粛清されたが、その罪状はほとんどの場合、創作とは関係なかった。たいていは、「反ソ陰謀」の容疑だった。

 しかし、オシップ・マンデリシュタームは、まさに自作の詩『スターリン・エピグラム』で収監された。この詩で彼は、「私たちは生きている 祖国を足下に感じずに…」と語り、スターリンを「クレムリンの山男」と呼んで、その乏しい教育をあてこすった。

 秘密警察のNKVD、そして後継機関のKGBは、これらの詩人の原稿と地下出版物を押収したが、廃棄はしなかった。すべての原稿は、秘密警察のアーカイブに保存されるか、特別な書庫(図書館の特別なリポジトリ)に送られ、限られた人だけが見ることができた。

 これらのアーカイブにより、ソ連崩壊後に、失われた作品の多くが復元され、公開された。

 日本語訳:

 アンナ・アフマートヴァ『レクイエム』(木下晴世訳)、群像社、2017年。

オシップ マンデリシュターム『詩集 石―エッセイ 対話者について』(早川真理訳) 、群像社ライブラリー、1998年。

『金の時代・銀の時代 ロシア詩選集 露西亜文学散歩:アレクサンドル・ブローク, アレクサンドル・プーシキン他』、Kindle版。

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