ロシアの作曲家ランキングTOP30

カルチャー
アレクサンドラ・グゼワ, ヴィクトリヤ・ウシャコワ
 世界中で有名な19世紀のロシア・クラシックから、国民になじみ深いソ連の曲や実験的なコンテンポラリーまで、ロシアの作曲家の必聴作品を、ロシア・ビヨンドが独自にランクづけし、特集する。
  1. マクシム・ドゥナエフスキー(1945年~)

 ドゥナエフスキーは、アリフレト・シュニトケの教え子、モスクワ音楽院の卒業生。クラシック音楽の作曲家になることもできたが、人生を演劇に捧げている。ヴァフタンゴフ劇場の指揮者になり、モスクワ音楽ホールで音楽監督を務め、国立エストラーダ・オーケストラの芸術監督になった。

 ドゥナエフスキーは、ソ連とロシアの象徴的なアニメや、「ダルタニャンと三銃士」、「メリー・ポピンズ、さようなら」などの映画の音楽を30作以上、ポップス音楽を数百曲、作曲した。曲の多くは国内各地でヒットしている。

  1. コンスタンチン・メラゼ(1963年~)

 グルジア生まれのメラゼは作曲家で、歌手である弟のヴァレリー・メラゼおよび人気グループ「バイア・グラ」のプロデューサーである。「バイア・グラ」の元メンバーで、数々の雑誌で「ロシアで最もセクシーな美女」に選ばれているヴェーラ・ブレジネワは、コンスタンチン・メラゼの妻。

 メラゼは音楽オーディション番組で音楽プロデューサーを務め、他の番組、フェスティバル、ミュージカル映画「スチリャギ(カッコつけ家)」にも参加している。

  1. マクシム・ファデエフ(1968年~)

 ファデエフは歌手リンダの作曲家、編曲家として有名になり、プロデューサーのキャリアもスタートさせた。また、グリュコザのアニメMV(ミュージック・ビデオ)も成功させている(このMVで歌っているのが誰かは当初明かされなかったが、後にナタリヤ・チスチャコワイオノワであると判明した)。

 ユリア・サヴィチェワ(ユーロヴィジョン2004のロシア代表)、エレーナ・テムニコワ(ユーロヴィジョン2007のロシア代表のバンド「セレブロ」のソリスト)、ポリーナ・ガガーリナ(ユーロヴィジョン2015のロシア代表で準優勝)などを輩出した、リアリティ番組「スター工場2」の音楽プロデューサーでもある。

  1. ドミトリー・クルリャンツキー(1976年~)

 クルリャンツキーはモスクワの優れた新世代作曲家の一人。現代ロシアとしては最初の非公式専門家団体「StRes」を創設し、限られた専門家の世界だけでなく、一般に新しい音楽を伝える活動を行っている。

 モスクワ音楽院の卒業生で、ベルリンのアーティスト・イン・レジデンス・プログラム2008で招聘された作曲家。複数の栄えある国際大会で優勝した後、ロシアで最も有名な存命作曲家の一人になった。作品の多くが依頼されたもので、2013年に公演の行われたバーバラ・バイエル監督のオペラ「惑星62」を含め、ヨーロッパでも活躍している。

  1. セルゲイ・ネフスキー(1972年~)

 ネフスキーは、モスクワの音楽シーンに欠かせない人物、StResの宣言の共同執筆者。  古い音楽、新しい音楽両方の愛好家で、モスクワ、ドレスデン、ベルリンで学んだ歴史家であり、教育者である。

 黄金仮面賞を受賞し、国際フェスティバルに度々参加している。作品は国際的に有名なアンサンブルやオーケストラによって演奏されている。キリル・セレブレンニコフ舞台・映画監督の演劇作品の音楽や、シンフォニー、オペラもつくっている。話題になったヨーロッパのプレミアの一つは、オペラ「オウトランド」(ドイツの文化フェスティバル「ルール・トリエンナーレ」で披露)。人のコミュニケーションの問題を調べる方法として自閉症児童が書いた歌詞を含めた。

  1. アントン・バタゴフ(1965年~)

 作曲家として、ロシアのシーンでアメリカのポスト・ミニマリズムのトレンドに追随している。  作曲の正式な教育を受けているわけではないが、  ピアニストとしてチャイコフスキー国際コンクールに入賞し、ロシアで初めてポスト・アヴァンギャルドな曲を多数演奏している。一方で、その作品がフィリップ・グラス・アンサンブルによって演奏されたり、ロシアとアメリカのコンサートやニューヨークの「バング・オン・ア・カン」フェスティバルを含むフェスティバルで演奏されたりしている。

 新しい音楽を複雑にすること、スタイルを高低ジャンルに分類することに反対している。作品は、ロック音楽と、バッハからラフマニノフやグリーグまでの伝統的なクラシック音楽に影響を受けている。

  1. ヤン・フレンケリ(1920年~1989年)

 フレンケリは、第二次世界大戦の犠牲者すべてに捧げるジュラヴリ(鶴)という曲を作曲し、ソ連で広く知られるようになった。この感動的なバラードをうたったのは、ソ連の有名な歌手マルク・ベルネス。

 フレンケリは人気の作曲家となり、自分でも演奏していた。作曲家となり、自分でも演奏していた。作品は、イオシフ・コブゾン、アンナ・ゲルマン、リュドミラ・ズィキナといった有名な歌手のレパートリーに含まれていた。数々のソ連映画のサウンドトラックを作曲し、また映画に出演することもあった。

  1. ダヴィド・トゥフマノフ(1940年~)

 母親が作曲家であったため、幼少期に音楽を学び始めた。エレーナ・グネーシナの弟子である。グネシナは偉大なピアニスト兼音楽講師で、権威あるグネーシン国立音楽教育大学の創設者の一人。トゥフマノフはこの学校で学んでいる。

 トゥフマノフは軍隊にいた時、アレクサンドロフ・アンサンブルのオーケストラの指揮を務めた。作曲家、編曲家としても活躍した。人気の高い愛国的な曲は「私の住所はソヴィエト連邦」と「戦勝記念日」。

  1. イーゴリ・マトヴィエンコ(1960年~)

 ウラジーミル・プーチン大統領のお気に入りのバンド「リュベ」の全曲の作曲者。リュベは、ロシアとその川、田園、森の美しさや、兵士、退役軍人についての愛国的な歌をうたっている。マトヴィエンコは、1990年代~2000年代の大人気グループ「イワヌシキ・インターナショナル」や、他の歌手のプロデューサー、作曲家でもある。2014年ソチ冬季五輪の開会式、閉会式の音楽プロデューサーも務めている。

  1. チホン・フレンニコフ(1913年~2007年)

 1948年から1991年までの43年間、ソ連作曲家同盟の理事を務めた。これは、フレンニコフが音楽の主な検閲者であったことを意味する。どの作品を演奏、録音し、どの作品に愛国心が不十分であるかなどを判断していた。しばしば検閲の対象となった天才ドミトリー・ショスタコーヴィチとの関係について、イギリスの作家が執筆している。

 フレンニコフは、オペラ8作品、バレエ5作品、映画と演劇の音楽30作以上をつくった、多作家でもある。音楽においてソ連共産党の方針に従い、ソ連の国民すべてに明確なメロディーをつくるべきだと考えていた。これは、高く洗練された、正義から悲劇までの感情に満ちた曲をつくろうとする試みに反対したことを意味する。

  1. イーゴリ・クルトイ(1954年~)

 ロシア語でクルトイとは、偉大、風格のある、または「スゲー」人物を意味するが、名字通りである。ロシアで非常に有名な音楽プロデューサー、作曲家である。アーラ・プガチョワ、フィリップ・キルコロフ、イリーナ・アレグロワ、ヴァレリー・レオンチエフなどの大物歌手やアンサンブルの作曲家、作詞家として活動している。このような歌手やアンサンブルのコンサートに同行し、ピアノを演奏するなどもしている。歌をうたうこともある。

 プロデューサーとして、ロシアの新しい才能の持ち主をプロモーションし、ラトビアの都市ユルマラで長年開催されていた「ノヴァヤ・ヴォルナ(新しい波)」のような大きな国際フェスティバルを手がけた。現在はソチに拠点を置いている。リアリティ番組「スター工場4」、年次イベント「今年の歌」のプロデューサーでもある。

  1. アレクサンドラ・パフムトワ(1929年~)

 偉大な現代音楽の作曲家、400曲以上の作者。わずか5歳で作曲を始めた。ソ連で最も依頼の多い作曲家の一人であったが、今でも人気がある。  夫で詩人のニコライ・ドブロンラヴォフの詩が歌詞として含まれている曲がほとんどであるが、セルゲイ・エセーニン、アンドレイ・ヴォゼネンスキー、ユーリー・ヴィズボル、ニコライ・ザボロツキーの詩にも作曲している。

 パフムトワの作品はコンサートの演目としてもしばしば使われ、コブゾン、ムスリム・マゴマエフ、レフ・レシチェンコ、リュドミラ・グルチェンコ、エドゥアルド・ヒーリなどのソ連およびロシアの主要な歌手が、歌をうたっていた。

  1. イリヤ・デムツキー(1983年~)

 ヨーロッパ映画アカデミーの2016年最優秀作曲家賞や、数多くの名誉ある賞を受賞している。サンフランシスコ音楽院大学院卒業。ドキュメンタリー映画のサウンドトラックを作曲したり、女性バンド「プッシー・ライオット」や同性愛者を支援するために、政治的な曲を書いたりしている。「プッシー・ライオット」は、プーチン大統領を批判する歌を、モスクワの救世主大聖堂で“ゲリラ演奏”した女性パンクバンド。

 セレブレンニコフ舞台・映画監督とコラボレーションし、その演劇や映画の音楽を作曲している。2人は2014年、ボリショイ劇場のバレエ「現代の英雄」、バレエ「ヌレエフ」にも取り組んだ。ヌレエフについては、延期が話題となった。

  1. アレクセイ・アイギ(1971年~)

 ロシア映画50作以上の音楽の作曲家で、数々の作曲家賞を受賞している。アメリカの実験音楽作曲家ジョン・ケージの「4'33」にちなんだ同じ名称のアンサンブルの創設者でリーダーでもある。このアンサンブルはオーケストラとともに、ロシア各地やヨーロッパで公演している。

 アイギはさまざまな楽器を使って実験音楽を演奏し、作曲している。たとえば、モスクワのタイプライター見本市では、タイプライターの文字盤の音で演奏を行っている。  実験音楽作曲家セルゲイ・クリョヒンに捧げた特別なコンサートも企画した。

  1. アレクサンドル・グラズノフ(1865年~1936年)

 リムスキー=コルサコフに師事した才能ある音楽家で、11歳にして作曲を始めた。17歳の時に交響曲を書き、ヨーロッパで演奏され、絶賛された。芸術のメセナであるミトロファン・ベリャエフの尽力により、「ロシア5人組」の伝統を守る作曲家集団に加わることができた。グラズノフはリムスキー=コルサコフとともに、アレクサンドル・ボロディンの「交響曲第3番」を含むオペラ「イーゴリ公」を完成させた。ボロディンは予期せぬ死により、完成させられなかった。

 グラズノフは教授になり、その後サンクトペテルブルク音楽院の監督になった。ここでは大きな改革を行い、学生オーケストラを創設した。1917年ロシア革命以後、ボリシェヴィキ政権と理解し合えたまれな知識人の1人であったが、1928年にオーストリア・ウィーンの作曲家コンテストに招かれ、そのまま亡命した。

  1. アレクサンドル・アレクサンドロフ(1883年~1946年)

 ソ連国歌の作曲者。現在、同じ音楽がロシア連邦の国家となっている。歌詞は異なる。

 ロシア革命および内戦前は、聖歌隊の歌手、そして救世主ハリストス大聖堂のレゲントとして活動した。監督、指揮者、時にソリストとして劇場で活動し、古典的なオペラの上演に関わっていた。ソ連時代に、赤軍合唱団(現アレクサンドロフ・ロシア連邦軍合唱・舞踊団すなわちアレクサンドロフ・アンサンブル)を共同創設し、率いた。  アレクサンドロフ・アンサンブルは現在、国際的に高く評価されている。第二次世界大戦中は愛国的な曲を書いた。今日でも、よく知られている。

  1. アラム・ハチャトゥリャン(1903年~1978年)

 世界的に有名なソ連のアルメニア系作曲家ハチャトゥリャンについて、サルバドール・ダリが日記に記している。ハチャトゥリャンはスペイン公演の際、ダリの家に招かれた。なかなかダリがあらわれなかったため、「剣の舞」を演奏していると、ダリが全裸で登場し、走り、そのまま消えていった。

 ハチャトゥリャンの作品には、バレエ音楽、交響曲、協奏曲、アルメニア・ソビエト社会主義共和国の国歌などがある。また、映画音楽を作曲し、劇場で活動し、第二次世界大戦中には愛国的な歌をつくった。

  1. ロディオン・シチェドリン(1932年~)

 伝説的なプリマ・バレリーナ、マイヤ・プリセツカヤの夫で、ボリショイ劇場のバレエ「アンナ・カレーニナ」、「カルメン組曲」(ジョルジュ・ビゼーのオペラ「カルメン」の再解釈作品)など、数多くのバレエ作品の作曲家。プリセツカヤは、それらのすべてのバレエで主役を務めた。シチェドリンは、オペラ、協奏曲や、女優タチアナ・サモイロワが出演した映画「アンナ・カレーニナ」の音楽なども手がけている。

 絶対音感の持ち主で、1回聴いただけで覚えてしまう。父親が作曲家、バイオリニストであったため、音楽の環境の中で育った。現代音楽作曲家として、作曲家同盟でショスタコーヴィチと活動した。

  1. アルフレート・シュニトケ(1934年~1998年)

 ロシア生まれ、ドイツ・ユダヤ系家族の出の有名な作曲家シュニトケにとって、ロシア語は第二言語であった。最初に学んだ楽器はハーモニカ。本人が「ポリスタイリゼーション」と呼ぶ異なるスタイルの合成が、作曲の特徴。オーケストラの作品にエレクトリック・ギターとベース・ギターを組み込むことに、一部のファンは熱狂していた。

 シュニトケは作曲をしているのではなく、天から自分のもとに降りてきたものを書き留めるだけだと言っていた。20世紀の他の多くの作曲家と同様、映画やアニメの曲も書いていた。晩年はドイツのハンブルグで過ごした。

  1. アレクサンドル・スクリャービン(1871年~1915年)

 スクリャービンは作曲家としても、神秘主義者としても有名であった。自分の芸術が普遍的な規模の変化をもたらすと信じていたため、伝統や限界をあまり重視しなかった。  国民は革新者、奇人、そしておそらく狂人というレッテルを貼っていた。色彩を投影し、音楽の調性をそこに反映させる合成、つまり音楽的な共感覚の実験は、現代でもほとんど成功しないことが証明されている。

 スクリャビンは音に現実を変える力があると信じ、色彩楽を初めて採用した。この世の終わりの始まりを引き起こす音楽も考えていた。各地で公演し、コンサート・ピアニストとして有名であったが、43歳で血液感染により死亡した。

  1. セルゲイ・プロコフィエフ(1891年~1953年)

 プロコフィエフは9~10歳の時に初めてオペラを書き、その後、音楽革新で有名になり、国際的な名声を得た。エイゼンシュテインの壮大な映画「アレクサンドル・ネフスキー」の音楽の作曲者である。一説によれば、1930年代(ソ連に暮らしながら、海外で活発に活動していた時)、ハリウッドの主要な映画スタジオから、週給2万5000ドル(約282万5000円)という破格の値で曲をつくるというフルタイム契約が提案されたという。だがプロコフィエフは、「自分の音楽、自分の子ども」のためにモスクワに戻った。

 プロコフィエフとスターリンは偶然同じ日に死去した。スターリンの全国的な服喪の影にプロコフィエフの死は隠れ、ほとんど気づかれなかった。

 バレエ「ロミオとジュリエット」の「騎士たちの踊り」は、誰もが耳にしたことのある、あのメロディーだ。

  1. ゲオルギー・スヴィリードフ(1915年~1998年)

 広く知られている人気のメロディーだからと言って、必ずしも作者が認識されているというわけではない。「時よ、前進!」のメロディーを、ソ連とロシアの国民の誰もが知っている(掲載動画を1:00より再生し、視聴してみよう)。ソ連の技術的な進歩をテーマとしたプロパガンダ・ドキュメンタリーや、テレビのニュースのイントロとして使われていた。

 スヴィリードフが最初に学んだ楽器はバラライカ。一家の引っ越し先であるレニングラード(現サンクトペテルブルク)でピアノを学び、レニングラード音楽院でドミトリー・ショスタコーヴィチから教えを受けた。最初の曲は、アレクサンドル・プーシキンの詩に合わせてつくった。プーシキンの小説「吹雪」をもとにした同名の映画の音楽をつくっているのもスヴィリードフである。

  1. ニコライ・リムスキー=コルサコフ1844年~1908年)

 リムスキー=コルサコフは、19世紀の最も尊敬された才能豊かな音楽教授の一人。海軍士官学校を卒業したものの、音楽に一生を捧げることになった。ロシアの歴史とおとぎ話で構成された15作品のオペラを完成させたことは、大変な偉業である。  大好きなロシアの民話を学び、可能な限り作品に使用した。

 リムスキー=コルサコフは、作曲家が音楽教育を受けて、さらに教授になる必要はないと、長い間考えていた。そして、作曲家たちの音楽史の知識の隙間を埋めることを、自らの課題とした。「教授として、自分の地位を不要なものにしたい!」と生徒に宣言。その中にはプロコフィエフという若者がいた。

  1. アレクサンドル・ボロディン(1833年~1887年)

 ボロディンは、ロシア最高のオペラの一つ、「イーゴリ公」の作曲家としてよく知られている。自分たちをミハイル・グリンカの後継者と考え、ロシアの気質を音楽に取り入れていた作曲家集団「ロシア5人組」の一人。他にムソルグスキーやリムスキー=コルサコフがいた。

 ボロディンは、ペテルブルク医療・外科アカデミーで学んだ医師である。周期表を作成したドミトリー・メンデレーエフや、他の著名人と親交があった。19世紀、ボロディンは科学者、化学者として有名であった。

  1. イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882年~1971年)

 ストラヴィンスキーの作品は、新古典主義を、20世紀の新しい音楽ジャンルとして発展させた。活発な公演活動、同じことのくり返しを求めない気持ち、さまざまなジャンルの作品をつくる能力により、他のロシアの才能ある人々とは違った魅力の持ち主となった。

 サンクトペテルブルク法学部で学び、音楽をリムスキー=コルサコフから教えてもらった。ストラヴィンスキーは作曲家、ピアニスト、指揮者、そして愛国者であった。ロシア国外で57年間暮らしたにもかかわらず、作品の源は常にロシアにあったと言われている。

 ココ・シャネルと不倫関係にあったという噂も存在するが、本人は噂を気にすることはなかった。

 85歳の時に、最後の傑作「レクイエム・カンティクルズ」を書いた。その後、心不全で死亡した。

  1. セルゲイ・ラフマニノフ(1873年~1943年)

 世界的に有名なピアニストであり指揮者であった。アメリカに26年暮らしたにもかかわらず、「作曲家の中で最もロシア人的」だと言われていた。裕福な貴族の家庭に生まれ、チャイコフスキーに高く評価され、何年も一緒に研鑽を積んだ。19歳で初のオペラを制作。その後、次々と新しい曲を生みだした。1917年ロシア革命後にアメリカへ亡命し、残りの人生をそこで過ごした。

 亡命生活の中で、国際的な名声を得た。  自分は「85%音楽家で、15%のみ人間である」と話していた。1オクターブ半の鍵盤を押さえることができるほどの大きな手の持ち主として有名である。ラフマニノフは寛大だったという。第二次世界大戦中、ソ連軍の航空機1機の建造費用を負担した。

  1. モデスト・ムソルグスキー(1839年~1881年)

 軍隊に入ることを目標としていたが、歌、ピアノがうまかったために、最終的には音楽をつくりたいという思いが勝った。いかなる草稿もなしに、最後まで一気に書きあげることを好んでいたものの、すべての作品を完成させたわけではない。オペラ「ホヴァンシチナ」を含め、作品の多くは、友人のリムスキー=コルサコフら、他の作曲家によって完成または編集された。

 バレエの興行師セルゲイ・ディアギレフは、その回顧録に、ムソルグスキーが生前、作曲家としてまともに扱われることはまれであったと書いている。ムソルグスキーはしばしば、リハーサルのピアニストとしてオペラ劇場に雇われ、1回のリハーサルで25ルーブル受け取っていた。批評家はムソルグスキーの作品に冷めた反応を示すことが多かった。死去後に作品が称賛されるようになった。

  1. ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906年~1975年)

 ショスタコーヴィチはソ連時代の伝説的な作曲家であり、作品は世界でひんぱんに奏でられ続けている。子ども時代、ウラジーミル・レーニンの演説を街頭で聴いていた。父の死後、家族のために無声映画のピアニストとして働いた。作曲家として、ソ連映画20作以上の曲も書いている。

 21歳の時に交響曲第1番がドイツとアメリカで演奏され、名声が早期に訪れた。だが人生を通してソ連の検閲に苦しめられていた。当時の人たちに「ほとんど笑顔を見せない」と言われたのは、このためかもしれない。

 レニングラード包囲戦の際、ショスタコーヴィチは交響曲第7番(レニングラード・シンフォニー)を作曲した(クイビシェフ市〈現サマーラ市〉で完成)。この曲は、世界から大きな注目を浴び、いち早く英米で初演されたほか、1942年8月には、カール・エリアスベルク指揮、レニングラード放送管弦楽団(現在のサンクトペテルブルク交響楽団)で、包囲下でのレニングラード初演が決行され、ラジオ中継も行われている。

  1. ピョートル・チャイコフスキー(1840年~1893年)

 チャイコフスキーほどロシア文化に大きな影響を与えた人は、おそらく、他にいないであろう。世界で最も多く演奏されるオペラとバレエをつくった記録を破るのは難しい。

 ロシアの地方の金属工場で働いていた技師の家庭に生まれた。ペテルブルクに渡り、法学を学んだ。音楽はずっと、ただの趣味であったが、仕事をやめ、音楽に専念した。

  1. ミハイル・グリンカ(1804年~1857年)

 ロシアの他の作曲家と異なる点は、グリンカがクラシック音楽のロシア派の父と言われていることである。


 わずか10歳で作曲を始め、ピアニスト、天使の声を持つ歌手として名声を得た。作曲家として有名になったのは30代である。

 オペラ「ルスランとリュドミラ」は、ロシアの批評家から批判されたが、ヨーロッパでは称賛された。  今日、オペラ監督をひきつけ続けている傑作である。ボリショイ劇場が2011年に新装開館した際に、新しい舞台で初めて行われたオペラがグリンカのオペラである。

 愛国的なメロディーは、1990年から2000年まで、ロシアの国歌であった。

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