ドミトリー・ショスタコーヴィチ=
レフ・イワノフ撮影/ロシア通信ショスタコーヴィチは幼年時代から音楽に関わる仕事をしようと心に決めていた。そして1919年にペトログラード音楽院に入学した。ロシア革命が起こり、第一次世界大戦が終戦し、激しい内戦が繰り広げられていたころのことだ。音楽院の教室は寒かったが、ショスタコーヴィチは音楽を諦めることなく、毎日オーケストラのコンサートに通っていた。1923年、ショスタコーヴィチは映画のピアノ伴奏者の試験に合格した。映画が上映されている1時間半、映像に合わせて即興でピアノを演奏するという仕事だった。ショスタコーヴィチは気に入ったフレーズを残し、それを発展させ、繰り返し弾いた。そうして、映画の登場人物ひとりひとりのメロディーを作っていった。
ロシアの優れた作曲家セルゲイ・ラフマニノフを見習い、ショスタコーヴィチは作曲だけでなく、ピアニストとしてコンサート活動を行おうとしていた。ショスタコーヴィチは1927年にワルシャワで開かれた第1回ショパン国際ピアノコンクールにも出場。自作の曲をいくつか演奏したが、その結果はディプロマを受賞するにとどまった。
レニングラード州、ドミトリー・ショスタコーヴィチ=アレクスサンドル・コンコフ撮影/タス通信
ショスタコーヴィチは19歳で音楽院を卒業したが、その卒業制作として書いたのが交響曲第1番である。この曲を聴いたドイツの指揮者で作曲家で、ベルリン市立歌劇場の音楽監督だったブルーノ・ワルターはすぐにスコアを送付してほしいとショスタコーヴィチに依頼した。そして1927年11月、国外での初演が実現した。交響曲はワルターに続いて、レオポルド・ストコフスキー、アルトゥーロ・トスカニーニによって指揮された。
ショスタコーヴィチが交響曲第7番の作曲に着手したのは、大祖国戦争が始まった1941年9月のことだ。第3楽章までをレニングラードで書いたあと、12月にクイブィシェフ(現サマーラ)で完成させた。そして交響曲は1942年8月、レニングラード・フィルハーモニーにて演奏された。演奏家たちは厳しい生活環境に置かれながらも力を尽くし、リハーサルを重ね、聴衆を前に演奏した。会場は空席ひとつなかった。市街では爆撃が続いていたが、ホールの明かりが消されることはなかった。レニングラード中がこのシンフォニーを聴き、またレニングラードとともに全世界がこの音楽を耳にした。交響曲第7番の楽譜はイギリスとアメリカにマイクロフィルムで送られた。
ショスタコーヴィチはクラシック音楽の大作を残した作曲家として知られる。実際、15の交響曲、3つのバレエ音楽、3つのオペラ音楽を書いた。しかし実はショスタコーヴィチの興味はさらに広いものだった。ピアノ組曲プレリュードとフーガ、オペレッタ「モスクワ―チェリョームシキ」、映画音楽、交響詩…。エヴゲニー・エフトゥシェンコ、アレクサンドル・ブローク、ミケランジェロ、ギヨーム・アポリネール、フェデリコ・ガルシア・ロルカの詩による曲もある。
ショスタコーヴィチが作曲した「祖国は聴いている、祖国は知っている」という歌の一部は全ソユーズラジオのジングル(コーナーや楽曲の切り替わりなど番組の節目に挿入される短い音楽)となり、メロディーには初の人工衛星のシグナルが使われた。そしてユーリー・ガガーリンも着地の際にこの歌を口ずさみ、歌はたちまちソ連航空宇宙産業のテーマ曲となった。
ニコライ・ゴーゴリの風刺小説『鼻』は、ショスタコーヴィチのもっとも有名な作品のひとつであるオペラ音楽の下敷きとなった。リブレットの執筆にはショスタコーヴィッチのほか、作家のエヴゲニー・ザミャーチンが参加した。しかし初演は失敗に終わり、16回の公演が行われた後、レパートリーから外されることとなった。『鼻』が世界的名声を博したのは1960年代のことで、ロシアだけでなく、外国でも上演された。また2000年に再びこのオペラへの関心が高まり、マリインスキー劇場で上演されたほか、ローマ歌劇場でもペーター・シュタイン演出で上演された。さらに2010年にはメトロポリタンオペラのレパートリーにも加えられた。メトロポリタンでの演出は現代美術家のウィリアム・ケントリッジが手がけた。
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