1900年、フランスの首都でパリ万博が開かれ、技術の進化や最高の芸術が展示された。ロシアは当時フランスと同盟を結んだばかりだったことから、万博に積極的に参加した。
ロシア館は、多くの展示品と並んで、当時まだほとんど知られていなかった「バラライカ」という楽器でロシア民謡を演奏する素晴らしいオーケストラでパリっ子を驚かせた。このオーケストラの長であるワシリー・アンドレーエフは、レジオンドヌール勲章と万国博覧会から大きな金メダルを授与された。多くの人にとって初めて目にすることになったこの楽器は、正式な教育は受けていないが才能あるセミョーン・ナリモフという名の大工によって作られたものであった。そしてその後、ナリモフが製作した楽器は、世界中の蒐集家の憧れとなった。
アンドレーエフのオーケストラ
V.V. Andreev's Orchestra, Musyka, 1987セミョーン・ナリモフは貧しかったが才能豊かな人物であった。「読み書きは出来ないが、大工技術は素晴らしい」。1884年に軍隊を除したとき、彼の才能についてはこう記述された。
セミョーン・ナリモフ(右)とトヴェリ州の風景(左)
Kira Lisitskaya, Public Domain生活が苦しかったことから、ナリモフは職を求めてヴォログダ県の村を出てサンクトペテルブルクに向かった。ロシアの首都に行く途中、ナリモフは強盗に襲われ、旅を続けるのに必要なお金をすべて失くしてしまった。仕方なく途中のトヴェリ州の駅で列車から降り、そこに住みついて生活の糧を得る為に大工仕事の雑用を始めた。
このしがない雑用係にとって運がよかったのは、世話になっていた地方の商家の屋敷で、バラライカを楽器として広めたいという情熱を持った雇い主の息子と出会ったことであった。
ナリモフが意志に反してトヴェリ州で旅を終えざるを得なくなった数年前、ワシリー・アンドレーエフはすでにバラライカの音色の虜になっていた。
ワシリー・アンドレーエフ
Public Domain「それは6月の静かな午後の事であった。村の家のテラスに座っていた。すると突然聞いたことのない音色が流れてきた。それがなにかの弦楽器の音であることは明らかであった。音色は次第に明るくなり、リズム豊かな旋律となり思わず踊りだしたくなった。両肩に水の入った桶を担いだ女の使用人が庭を歩いていた。水の入った桶は重たそうに揺れ、水が溢れ出ていた。そしてその農婦の脚がその音楽よりも若干早いテンポでリズムを刻んでいた。自分の脚も思わず同じように動きだしそうだった。私は立ち上がってその音が来る建物に向かって走り出した。私のところで働くひとりの男が目の前の階段に座って、バラライカを奏でていたのだ!そのリズムと独特の演奏法にとても驚いた私は、三弦しかないみすぼらしい楽器がこんなに多くの音色を出すことが出来るなんて信じられなかった」。アンドレーエフは1883年にこの楽器との出会いについてこう書いている。
バラライカをサンクトペテルブルクや他の国の首都の上流階級にも知られるようなものにしたいと切望したアンドレーエフは、オーケストラをつくり、上質のバラライカを製作できる職人を探した。
アンドレーエフはサンクトペテルブルクに行ったが、当時の名の知れた職人の強固な反対にあった。彼らは、民謡のための楽器を作るなど自分の沽券にかかわるとバラライカ製作を拒絶したのである。新しく結成したオーケストラに最高の楽器を与えたいと考えていたアンドレーエフは、そのとき、木の扱い方をよく知る雑用係が近くにいるという噂を聞きつけた。
セミョーン・ナリモフと妻と妹(左)、ナリモフ製作のバラライカ(右)
Kira Lisitskaya, Public Domain; Mikhail Ozerskiy/Sputnikアンドレーエフとナリモフは1890年代初めに出会った。地元に伝わる話では、バラライカを一緒につくることになったとき、ナリモフはアンドレーエフの屋敷内を歩き回って木製の窓枠や扉を叩いていた。ナリモフはそうやって、最高の音を出す、完ぺきなバラライカを作るための最高の材料を見極めていたのだ。最終的に、ナリモフは領主に、館の窓枠と扉は第一級のマウンテンメープルでつくられていて、これが最高の材料だと思うと報告した。アンドレーエフは窓枠と扉を取り外すように命令し、ナリモフの仕事場に届けさせた。ナリモフがバラライカの製作に取り掛かっている間、アンドレーエフの館は窓も扉もなかったとも言われている。
最高の道具と最高の材料を得て、ナリモフはついに求められるものを製作することに成功した。それは、他の民族楽器では出すことが出来ない、アンドレーエフがかつて耳にした音色を奏でる完ぺきなバラライカであった。
ロシアの作曲家でバラライカの名演奏家であるアレクセイ・アルヒポフスキーは、ナリモフの楽器について、「天性のハーモニーが『ナリモフの楽器』にはある。そういった意味では、ストラディバリウスに近い。『彼の楽器』は特定のハーモニーにおいて、正確な表現ができた。とても凝縮され、はっきりした、そしてそれゆえとても複雑で深い音色を持っていた。この深い音は演奏者によるものではなく、楽器そのものからもたらされるのである」と述べている。
セミョーン・ナリモフ
Public Domain実際、ナリモフが製作した楽器は今ではとても価値があるとされている。様々な国の蒐集家はこれを手に入れることを夢見ている。「正式なものではないが、ナリモフの製作した楽器のリストがある。熱心な蒐集家が作ったものである。それによると、全部でおよそ125本の楽器があるが、一部は国外にある。なぜなら、外国の蒐集家も彼の楽器を追い求めているからだ」。そう語るのはロシア・グネーシン音楽大学民族弦楽器学部長、アンドレイ・ゴルバチョフだ。
セミョーン・ナリモフは多くの伝説を遺し、1916年に59歳で亡くなった。彼は生前バラライカ、ドンブラ、その他の楽器を300ほども製作した。そして「バラライカのストラディバリウス」という異名で呼ばれ、雇い主でありながら彼を熱心に支えたワシリー・アンドレーエフとともにこの民族楽器を不滅のものにした。
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