アンナ・ガライダ ロシアNOW

マイヤ・プリセツカヤ
芸術に囲まれた人生

11月20日、世界は偉大なバレリーナ、マイヤ・
プリセツカヤの生誕記念日を祝う。その創作活動は
バレエを超越し、活躍の痕跡は文学、ファッション、アート、映画、音楽など、いたるところに残っている。

映画と舞台

 プリセツカヤの芸術的才能は、幼少のころからまわりの大人には明らかだった。本人も、まだ学校にあがる前、レオ・ドリーブのバレエ音楽
「コッペリア」のワルツの音が通りの外部スピーカーから聴こえ、家に帰る道さえも知らずに、家の敷地から飛び出していったことを覚えていた。
 音楽に熱中するあまり、通りの真ん中で我を忘れて
しまったという。
 驚くことはこれだけではない。プリセツカヤの母親(無声映画のスター
女優で、最も繁栄したモスクワ演劇時代の人)は、ある少女を群衆の中で
見つける。その少女は小さなマイヤの即興ダンスを夢中になって眺めて
いた。

 ボリショイ劇場のスター・ダンサーでプリセツカヤに最初のレッスンを行ったおばのスラミフィ・メッセレルは、7歳だった姪に「瀕死の白鳥」を
教えた。この時、驚くほどやわらかい手と、大きな暗色の瞳の魅力的なまなざしに気づいた。

 マルチェロ・マストロヤンニは「白鳥の湖」を鑑賞した後、目に涙を浮かべながら楽屋に行き、プリセツカヤにこう言った。「俳優とはなんて貧しいのか。私たちには表情とジェスチャーしかない。マイヤ、あなたは全身で語っている」

「アンナ・カレーニナ」、
アレクサンドル・ザルヒ監督
プリセツカヤが映画関係者を魅了したのも驚きではない。ソ連のアレクサンドル・ザルヒ監督のクラシック映画「アンナ・カレーニナ」で演じた
ベッツィー・トヴェルスカヤの役と表現力で競えるのは、本人のバレエの
役だけである。映画への出演はこれだけではない。映画「チャイコフスキー」で歌手デジレ・アルトー役も演じている。また、絵画「黄道十二宮」のチュルリョーニスの女神にもなっている。

 プリセツカヤはその後、イワン・ツルゲーネフの中編小説を原作とした
映画「春の水」の制作をアナトリー・エフロス監督に提案した。「あれは
プリセツカヤのアイデアだった。演劇の役を演じ、その演劇でバレエも踊ると。私は自分の習慣から、一旦、相手を傷つけないように『合意』したと言い、その後で何らかの理由をつけてうまく逃げることに決めた。私は後で
消えるために、いつも合意するが、うまくいかない。ましてやプリセツカヤから逃げるなんて、絶対に無理だ。逃げるぞと思いながら、なぜか本人が
練習しているバレエのクラスに行ってしまう。その練習の見事なことと
言ったら」!»

 残念ながら、プリセツカヤを演劇のシーンで見ることはなかった。その代わり、日本の能の演目「羽衣」に出演している。白足袋と草履をはき、地上に舞い降りた天女になった。また、能の演目「黒塚」でも主役を演じている。2008年には京都の上賀茂神社で一流能楽師の梅若六郎と共演。会場にいた観客だけでなく、テレビの放送を見た人をも感動させた。2003年、宝塚歌劇星組公演「王家に捧ぐ歌」の振付師にもなっている。

視覚芸術

 プリセツカヤが絵画と彫刻になっている数を数えたら、
右に出るアーティストは恐らくいないだろう。その表現力、
きれいな首のライン、語りかけるとても長い手は独特で、
一流職人の傑作でも、子どもの絵でも、簡単にこれが
プリセツカヤだと認識できる。

 マルク・シャガールは、メンデルスゾーンの音楽に合わせて
即興、裸足でまわっているプリセツカヤを描いた。

 その後、プリセツカヤはニューヨークの「メトロポリタン・
オペラ」の壮大なキャンバスに自分の姿を見た。
「腰を曲げ、体を傾け、弦のようにピンと伸ばしていた...」

 白鳥はプリセツカヤの真のシンボルとなった。プリセツカヤの芸術から
長年インスピレーションを受けてきたソ連の彫刻家エレーナ・ヤンソンマニゼルの小像、ナディヤ・レジェのモザイク・パネル絵、ブラジルのグラフィティ・アーティスト、エドゥアルド・コブラのボリショイ劇場近くにある「プリセツカヤ小公園」の壁画に、白鳥は記録されている。
上:1.マイヤ・プリセツカヤ、2.宝飾デザイナー、ピョートル・ザリツマンによる貝殻の彫刻、3.ブラジルの画家、エドゥアルド・コブラの「グラフィティ」
下:1.彫刻家ダビド・ナロディツキーによるカルメンを演じたプリセツ
カヤ、2.アルトゥール・フォンビージンによる肖像、3.彫刻「白鳥 マイヤ・プリセツカヤ」

音楽

 ダンサーの多くとは異なり、プリセツカヤは若いころから詩人、作家、
芸術家、音楽家の輪の中にいた。「今日はリリャ・ブリクのところに
行った。ジェラール・フィリップと夫人、ジョルジュ・サドゥールも遊びに来ていた。皆とても愛らしくて、愛想が良い。夫妻は私を舞台上で見れなかったと残念がっていたから、自分の写真にサインしてプレゼントし、
"なぐさめた"(どれもひどい写真ばかりで、まともなものはなかったの
だけど)。他の客人はいなかった(あとは作曲家シチェドリン)」と、
プリセツカヤは1955年、シチェドリンがベヒシュタインのピアノを奏でた夜について書いている。
 シチェドリンはこう想起していた。「プリセツカヤがプロコフィエフのバレエ音楽『シンデレラ』を唄った録音を聴いて驚いた。絶対的な
音感があって、すべてのメロディーから第二声部まで原曲の音調を正確に再現していた。当時はプロコフィエフの音楽を理解することはかなり困難だったからなおさらのこと」
 2人の間に愛が生まれたのは、互いの音楽を聴き、初めて出会ってから
3年後のことである。シチェドリンが妻にささげたバレエ音楽はプリセツカヤのテーマ曲になった。「アンナ・カレーニナ」、「かもめ」、「犬を連れた奥さん」の音楽のイメージは、主人公のみならず、プリセツカヤの特徴も内包している。
マイヤ・プリセツカヤとロディオンシチェドリン

執筆活動

 白鳥は、その後のカルメンと同様、プリセツカヤのシンボルになった。孤高、不屈の強くて勇敢な白鳥の
イメージは、芸術家だけでなく、優れた詩人やアマチュア詩人にインスピレーションを与え、長い詩になった。

 だがプリセツカヤ自身にも、プロのような文章力があった。本人の個性だけでなく、洗練されたスタイルで、
執筆した2冊の本 「私はマイヤ・プリセツカヤ」「13年後」はベストセラーになっている。
「私はギャロップで自分の人生を飛んでいる。
自分のあわただしい人生全体を。経験してきたことの完全な伝達は不可能であることが、ますます鮮明になってきている。断片的にしかできない。かすんだ
外形。影...本当にこんなことがあったのだろうか。
たしかにあった...初演、花、闘い、奔走、無駄骨、
衝動、出会い、集合、スーツケース、毎日の闘い...」

 「読者の君は私の何に興味を持つのか」

 「私が左利きで、すべてで左手を使うことか。書く時だけは右手を使い、左手となると鏡のように反対方向にしか書けないということか」
 「私がいつも争ってばかりいたことか。前後の見境なく、しばしば無駄に行動していたことか。頭を使わず、不公正に、ただ人に恨みごとを言っていたことか。そして後で後悔していた...」

 「浪費家なのにケチで、勇敢なのに臆病で、女王気どりなのに控えめで、私の中で極端さが混在していたことか」

 「あらゆる出版物から珍しい苗字を切り取って集めていたことか。愚かなほどだまされやすくて、同じ
ぐらい短気で、待つことができなくて、激しくて、
衝動的で...これらすべてがばかげていて、ナンセンスなことか。それともこのナンセンスが私の風貌を補完しているのか」

プリセツカヤファッション

プリセツカヤとイヴ・サンローラン(左側)、プリセツカヤと ピエール・
カルダン(右上)
 ソ連女性の誰もが明るい更紗をまとっていた時代、プリセツカヤは奇抜さで目立っていた。ソ連のバレリーナの中で初めて、海外の公演先から弾性
レオタードや透織りの贅沢な生地を大量に持ち帰ってきたのもプリセツカヤである。

 パリでは作家、ルイ・アラゴン夫人、リリャ・ブリクの妹であるエルザ・トリオレから、ファッションのトレンドを教えてもらい、ココ・シャネルからはブティックに招待され、コレクションから好きなものを選ぶよう提案された。

  バレエの衣装を、イヴ・サンローランやジャンポール・ゴルチエが制作
した。1960年代、ダイヤモンドと毛皮を身につけたプリセツカヤを撮影したのは、一流写真家のリチャード・アヴェドンとセシル・ビートン。 1971年、アヴィニョン演劇祭で、ピエール・カルダンはナディヤ・レジェからプリセツカヤを紹介された。
『カルメン』 を踊っているプリセツカヤを見て一目ぼれした」と打ち明けている。
 その後数十年にわたり、カルダンは自分の女神のために、30着以上の衣装を友情価格でデザインした。プリセツカヤも絶対的な忠誠を保ち、
トレーンのついた美しいドレスで人前にあらわれていた。

 「カルダンが天才なのであって、私が一途なのではない。デザイン
してもらった劇場用、映画用の衣装は最高の贈り物」。これらの優美な
衣装は現在、モスクワの「A.A.バフルシン劇場博物館」に展示されて
いる。プリセツカヤとカルダンは1998年、クレムリンでコラボ・ショー 「ファッションとダンス」 を発表した。

プリセツカヤのスポーツ

 プリセツカヤとシチェドリンが最後の10年を過ごしたドイツ・ミュンヘンでは、オペラよりもスタジアムに通っていた。夫妻は中心部へ行くと、必ずサッカーの試合を観戦していた。偉大なバレリーナが気づかれなかった世界唯一の場所だっただろう。「サッカー・ファンは私のことを知らない。私はサッカーが好きだけど、これは片思い」
プリセツカヤはスポーツが大好きだった。「これは喜び。肉体の『文明』。サッカー選手は現代版剣闘士。なんと幻想的で、力強いことか。なんという技術を持っていることか」。

  ソ連時代は「CSKAモスクワ」のファンだった。
ピエール・カルダンが制作したプリセツカヤのアルバムには、ミシェル・プラティニと写っている写真が
ある。

 スポーツまでもがバレエに影響を与えていることを証明したのだ。そして、ペレが自分の時代にはこの
ような技術はなかったと言っていたことを思い出しながら、プリセツカヤも自分の時代にはバレエに今日のような技術はなかったと話した。

著者: アンナ・ガライダ
写真提供 : ミハイル・ポチュエフ、ニコライ・クレショフ、ヴラジーミル・キセリョフ/
タス通信、 アレクサンドル・マカロフ、V.マリセフ、 ドミトリー・ドンスコイ、A.クニャゼフ、ヴラジーミル・ロディオノフ、イーゴリ・ミハリョーフ、セルゲイ・ピャタコフ/ロシア通信、Corbis/East News、 Getty Images。
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