作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーについて知っておくべき10のこと

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 伝説的な音楽家ストラヴィンスキー(1882年-1971年)は88年生き、20世紀のあらゆる大変動を経験した。そして彼は同時代で最も際立った表現者の一人となった。

1. 帝国劇場の有名なバス歌手の息子だった 

 20世紀で最も急進的な作曲家の一人だったストラヴィンスキーは、19世紀音楽の伝統を大いに体現してきたオペラ歌手の息子だった。バス歌手のフョードル・イグナチエヴィチ・ストラヴィンスキーは、彼が四半世紀演奏した帝国劇場で名誉演者という珍しい称号を授かっていた。彼のオペラのレパートリーは59もあった。歌手はモデスト・ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』のヴァルラーム役、ミハイル・グリンカの『ルスランとリュドミラ』のファルラーフ役、アレクサンドル・ダルゴムイシスキーの『ルサルカ』のメリニク役、ピョートル・チャイコフスキーの『マゼッパ』のオルリク役で名を馳せた。 

 ストラヴィンスキー・シニアは、サンクトペテルブルクの文化界で際立った人物だった。イリヤ・レーピンは、有名な絵画『トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック』において彼をコサックの一人のモデルにしたし、彼の家に通う客人の中にはフョードル・ドストエフスキーもいた。

 

2. リムスキー=コルサコフのおかげで作曲家になった 

ニコライ・リムスキー=コルサコフのリビングルームにて。左側からイーゴリ・ストラヴィンスキー、ニコライ・リムスキー=コルサコフ、リムスキー=コルサコフの娘ナジエージダ、ナジエージダのフィアンセ、ストラヴィンスキーの妻エカテリーナ、1908年

 作曲家が2人目の父と呼んだのが、リムスキー=コルサコフだった。家族の要望でペテルブルク大学法学部に進んだストラヴィンスキーは、公式には一度も音楽を習ったことがなかった。リムスキー=コルサコフは彼の独創的な才能を見抜いた。音楽院への進学を断念させた彼は、2年間自ら彼に個人レッスンをし、専門能力の開発に決定的な役割を果たした。

 

3. ディアギレフの「ロシアの季節」とともにヨーロッパで有名になった

セルゲイ・ディアギレフとイーゴリ・ストラヴィンスキー、パリ、1921年

 ストラヴィンスキーの運命を決める真の魔術師となったのが、興行主としてロシア芸術をヨーロッパとアメリカに広めたセルゲイ・ディアギレフだった。パリでの最初の「ロシアの季節」の公演後、彼は過去のプログラムで収めた成功を上回る作品を探していた。火の鳥を扱ったロシア民話に狙いを定めたディアギレフは、駆け出しの作曲家ストラヴィンスキーのことを思い出した。『火の鳥』は1910年の「ロシアの季節」の中心演目となり、1911年にはストラヴィンスキーのバレエ『ペトルーシュカ』がこれに代わった。作曲家は瞬く間に世界的な有名人になった。ディアギレフが死去するまで、2人の協力関係は続いた。彼らの関係は複雑でしばしば苦痛を伴うものだったが、今や2人は、互いに愛したヴェネツィアのサン・ミケーレ墓地の正教会の一角に隣り合って眠ってる。

 

4. 芸術に革命を起こした

『春の祭典』のバレエダンサーたち、1913年

 1913年5月29日は、現代芸術の始まった日とされている。これはディアギレフの「バレエ・リュス」がパリで上演した『春の祭典』の初演日だ。以後、この演目を作ったディアギレフ、ストラヴィンスキー、画家ニコライ・レーリヒ、振付師ヴァーツラフ・ニジンスキーは皆、自分が演目を作る上で決定的な貢献をしたと主張しながら争うことになる。だが、文字通り「パリ中の人々」が集まったゲネプロで、大スキャンダルが起こる。バレエを非難する客と擁護する客が口笛を鳴らし、叫び、椅子で殴り合ったのだ。異教時代のルーシを描いたバレエは複合的なアバンギャルド作品だった。彼らは数回の公演を敢行した。とはいえ、ストラヴィンスキーの作品は、ピョートル・チャイコフスキーの『くるみ割り人形』、セルゲイ・プロコフィエフの『ロメオとジュリエット』と並んで最も人気のバレエの一つとなった。

 

5. 創作活動に3つの段階があった

 ストラヴィンスキーの創作活動は3つの段階に分けられる。最初の10年は「ロシア的」と呼ばれる。作曲家はロシアのフォークロアを学び、その形式を実験した。最初期のバレエに続いて作られた作品に、『結婚』と『狐』、オペラ『マヴラ』がある。ストラヴィンスキーは『プルチネッラ』で新古典主義という新たな段階に入り、数十年をこれに費やした。この作品もまたディアギレフの劇団で上演された。新古典主義の傑作としては、『ミューズを率いるアポロ』『妖精の接吻』『3楽章の交響曲』『オルフェウス』『アゴン』、オペラ『オイディプス王』『放蕩者のなりゆき』、メロドラマ『ペルセフォーヌ』がある。後の段階は連続的でドデカフォニー的と見なされる。聖書のテクストと祈りに基づく『トレニ―預言者エレミアの哀歌』『説教、説話、祈り』、宗教劇『大洪水』、管弦楽曲『変奏曲―オルダス・ハクスリー追悼』がこの時期の作品だ。

 

6. 最も多産な作曲家の一人だった

 ストラヴィンスキーは最も生産力の高い作曲家の一人だった。彼の遺産には7万5千ページ以上の楽譜がある。彼は一日18時間働くことができ、老後も一日の労働時間は10時間だった。

 

7. 幻想的な魅力で際立っていた 

クロード・ドビュッシーとイーゴリ・ストラヴィンスキー

 両親と同じく、音楽家は周囲の人を惹き付ける人物で、非常に魅力的な語り手だった。彼と親交があった人物の中には、フランスの有名な「六人組」の作曲家ら、クロード・ドビュッシー、マルセル・プルースト、パブロ・ピカソ、ココ・シャネル、チャーリー・チャップリンもいた。

 

8. ニューヨーク・シティ・バレエ団のためにバレエを書いた 

ジョージ・バランシンとイーゴリ・ストラヴィンスキー

 ストラヴィンスキーとジョージア(グルジア)系ロシア人の振付師ジョージ・バランシンの長年の協力関係は、ピョートル・チャイコフスキーとマリウス・プティパのコンビに例えられる。彼らが共同で作った最初のバレエ作品は1928年にディアギレフの「バレエ・リュス」で上演された『ミューズを率いるアポロン』で、次いで特注の曲が書かれ、ストラヴィンスキーの昔のバレエ音楽の新しいバージョンが作られ、彼のバレエ作品以外の音楽がバランシンの劇で使用された。ストラヴィンスキーの死後、バランシンと彼のニューヨーク・シティ・バレエ団は2度ストラヴィンスキーのバレエの祭典を開いた。

 

9. 革命後はフランスとアメリカで暮らした 

イーゴリ・ストラヴィンスキーは家族と一緒に、1929年

 妻が結核だったため、ストラヴィンスキー一家は毎年スイスで冬を過ごしていた。彼らはそこで第一次世界大戦を経験した。革命後、作曲家はロシアに戻らないことを決めた。資産はすべて祖国に残しており、4人の子供のいる彼の家族は長い間とても苦しい生活を送った。1920年にストラヴィンスキー一家はパリに移住し、長年ストラヴィンスキーのファンだったココ・シャネルが彼らを物資面で助けた。最初の妻の死と時をほとんど同じくして第二次世界大戦が勃発したことを受け、ストラヴィンスキーはアメリカへ渡った。

 

10. ソ連ではストラヴィンスキーの作品は禁止された

ソ連での公演

 1920年末にロシアのアバンギャルド芸術家とソビエト政権の良好な関係が終わったことで、ストラヴィンスキーのソ連でのキャリアにも終止符が打たれた。ようやく1962年のフルシチョフの雪解けの時期になって、ストラヴィンスキーはモスクワとレニングラードに招かれ、80歳記念コンサートを開いた。噂では、総書記はストラヴィンスキーにロシアに留まるよう提案したというが、彼は結局ニューヨークに戻り、そこで1971年4月6日に世を去った。遺言に従い、遺体はヴェネツィアに埋葬された。

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