ミトゥーリチの挿絵の入った「日本民話集」より
ーあなたは様々な国にいらしたのに、あなたの海外プロジェクトの話になると、なぜか日本関連のものが言及されることが多いようです。あなたの創作のなかで日本を強調するのは正しいことですか?
たぶん、そうでしょう。初めて日本を訪れたのはずい分前のことで、たしか1966年だったと思います。児童向けの本に関するソ連日本シンポジウムが開催されたので、レフ・カッシリ、アグニヤ・バルトーらとともにソ連代表団に加わったのです。でも、日本人と知り合ったのはそれより前で、いつだったか、ソ連芸術家同盟を通じて、私のアトリエに日本人の画家グループを寄こしたことがあったのです。そのうちの何人かと親しくなりました。一緒にテーブルを囲み、モスクワで妻が調理したキノコのオピャータのマリネに舌鼓を打ったことなど思い出したりしてました。日本人はその味が記憶に刻み込まれたらしく、その後長い間、冗談で私のことを「キノコの料理が上手い女性の夫」などと呼んでましたよ。
ー日本のおとぎ話の挿絵をたくさん描かれたそうですが?
ええ、その通りですが、私の挿絵つきの物語集は1冊出版されただけです。 ずい分たくさん描いたんですけどねえ。大部の物語集が2冊、薄いのが1冊、もう印刷に回す準備ができていたんですが、ちょうど、ソ連の“時代の変わり目”にぶつかりまして。で、本のほうも日の目を見ずに終わったわけです。
ー北海道の風景画を数多く描かれてますね…
私と妻は小樽で1年半過ごしました。そこにとても面白い人がいまして、ビジネスマンでロシア美術の愛好家なんです。名前はサワタリ・ハジメといいました。彼が所有する3階建ての家は、海のまん前にあって、2つの階を画廊が占めているんです。シーシキン、ブリュローフ、サヴラーソフ、それにレーピンがたくさんありました。彼が私たちのために、素晴らしい4部屋のアトリエつきアパートを見つけてくれたのです。床は畳でしたが、私はさらにポリエチレンと新聞紙を敷き詰めました。絵具で汚さないようにね。
ーあなたは、どちらかというと画家ですか挿絵画家ですか?
私は子供の頃から、画家というのは大文字の画家であって、何でもできるべきだ、という教育を受けてきました。レオナルド・ダ・ヴィンチは画家ですけど、飛行機 もヘリコプターも設計したんです。そりゃ、自分をダ・ヴィンチと比べようなんて思いませんが、本当の名人は色んなことができなくては。それに絵画は、画家の最も十全な自己表現ですからね。本の挿絵を描いている時は、一定の枠内にとどまらねばなりません。挿絵はテキストと不可分だし、出版社の条件にもしばられますし。その点、絵画を描く時は、注文に合わせるんじゃなくて、自由でいられますよ。
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