日本を愛したマイ・ミトゥーリチ

モスクワの「ロシア国立東洋美術館」は最近、ロシアの有名な挿絵画家マイ・ミトゥーリチ生誕90年展を行った。ミトゥーリチはアジアの旅で、インド、中国、日本の童話を描くためのインスピレーションを受けた。ラドヤード・キプリングの「ジャングルブック」にあるミトゥーリチの挿絵は、時代が変わっても、子どもたちに人気がある。

 マイ・ミトゥーリチとして知られるマイ・ミトゥーリチ=フレブニコフは1925年5月29日、父のピョートル・ミトゥーリチと、ロシアの有名な詩人ヴェリミル・フレブニコフの妹である母のヴェーラ・フレブニコワという2人の前衛芸術家の間に生まれた。「私はこのような家庭で生まれ、画家になることを運命づけられていた」と2004年のインタビューで語っている。

小樽市を訪れたミトゥーリチ氏

 第二次世界大戦が勃発した時、17歳だったミトゥーリチは、赤軍入りを志願し、他の軍事画家とともに大きなアジプロのポスターを制作していた。終戦時はベルリンにおり、ソ連大祖国戦勲章2級(ソ連時代もっとも権威のあった勲章の一つ)を受章した。戦後は勉強し、本の挿絵画家になった。

 ミトゥーリチが最初にアジアの文化と自然に興味を持ったのは、ソ連極東を旅行した1950年代。最初の挿絵シリーズは1957年、中国の童話集「黄金の提灯」の中に掲載された。

 1960年代から1970年代にかけて、ミトゥーリチは日本、タイ、インドを訪問。インドへは、キプリングの「ジャングルブック」の挿絵のために行った。「私は二度モーグリを描いた。2回目の訪問の時だった。太陽光がとても強くて明るかっため、すべてを描き直して、より鮮明にした」と2002年にインタビューで語っている。ソ連の出版社の編集者は、インドの作品を見た後、他の挿絵画家への発注をキャンセルし、ミトゥーリチの絵を使用することを決めた。

 1976年、モーグリの絵の入った本が出版された。出版社は初版部数を15万部に設定。過去40年で、8回増刷されている。

 ミトゥーリチはホメーロスの「オデュッセイア物語」とキプリングの「ひとり歩く猫」の挿絵もした。  

日本への情熱

 ミトゥーリチはアジア全域を旅したが、日本を一番愛していた。「父は日本人が好きで、気持ちが通じ合っていた」と、娘のヴェーラ・ミトゥーリチさんはロシアNOWに語った。

 ミトゥーリチは1966年、ソ連の画家からなる代表団の団員として、初めて日本を訪れた。数年後、日本の実業家兼美術品収集家から北海道に招待され、2年間滞在した。

ミトゥーリチ氏による「日本民話集」のイラスト

 ヴェーラさんによると、北海道では創作活動に集中していたため、生涯でも有数の生産的な時期になったという。ソ連に帰国する時、作品のほとんどをプレゼントとして日本に残した。作品の多くは現在、日本の民間ギャラリーに所蔵されている。

 ミトゥーリチはその後4回日本に渡り、日本のさまざまな出版社やイラストレーターに知られるようになった。1983年、ミトゥーリチの挿絵の入った「日本民話集」が出版され、ソ連で10万部販売された。

 

現代ロシアでの活動

 2000年代初め、ミトゥーリチはモスクワで日本の書道家の森本龍石氏と会った。ミトゥーリチは日本語を話さないし、日本の伝統美術の基礎も学んだことがなかったが、2002年、2人は「接点」と呼ばれるプロジェクトを始め、森本氏が松尾芭蕉と正岡子規の俳句を書道にし、ミトゥーリチが挿絵を描いた。

 「詩と絵が一人の人間によってつくられたような気がする」と東洋美術館のスヴェトラーナ・フロムチェンコ学芸員はロシアNOWに話した。

 2005年、ミトゥーリチは二つの文化の懸け橋になったとして、旭日章を受賞した。人生の多くの時間をアジアで過ごしたミトゥーリチは、2008年に永眠した。娘のヴェーラさんは画家になり、父の残した作品のプロモーションに取り組んでいる。