チェレポヴェツ:ロシア屈指の製鋼都市になった河岸の田舎町

チェレポヴェツ。復活大聖堂の北側。ウィリアム・ブラムフィールド撮影。2010年1月1日

チェレポヴェツ。復活大聖堂の北側。ウィリアム・ブラムフィールド撮影。2010年1月1日

Sergei Prokudin-Gorsky
 歴史と建築の専門家であるウィリアム・ブラムフィールドが、工業都市のチェレポヴェツを探訪する。

 1700年代初頭、ロシアの新都サンクトペテルブルクに国産の穀物やその他の日用品を供給する難題に直面したピョートル大帝は、サンクトペテルブルクとヴォルガ川流域との交通網の整備を主導した。この水路は、皇帝パーヴェルの治世(1796年-1801年)にさらなる発展を遂げ、皇后マリア・フョードロヴナに因んでマリインスキー水路と名付けられた。

チェレポヴェツ。シェクスナ川右岸から望んだ北の景色。左から、至聖三者大聖堂(1951年頃解体)、復活大聖堂(上記参照)。右奥はヤゴルバ川。セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー撮影。1909年夏

 マリインスキー水路はサンクトペテルブルクのネヴァ川からラドガ湖へ延び、スヴィリ川を経てオネガ湖南岸に達する。オネガ湖を越えるとヴィテグラ川と運河が続き、コヴジャ川を経て白湖(ベロエ湖)に注ぐ。白湖の流出河川にシェクスナ川があり、ヴォルガ川の港町ルィビンスクに至る過程で今や巨大工業都市となったチェレポヴェツを通過する。

 1909年、ロシア人写真家・化学者のセルゲイ・プロクジン=ゴルスキーは、交通省の要請でシェクスナ川沿岸の広い範囲を撮影した。浚渫の実施や水力施設の建設に必要な調査写真に加え、彼は農民の姿を捉えた田園風景も撮影している。時が止まったかのような夏の収穫期の景色だ。

鋼鉄の前は宗教的中心地

復活大聖堂の北側。ウィリアム・ブラムフィールド撮影。2006年8月13日

 シェクスナ川沿岸を旅した彼は、チェレポヴェツという小さな町に行き着いた。彼は右岸から町の遠景を写しただけだったが、その写真は今に残る町の重要な特徴を捉えている。

復活大聖堂の内部。玄関の東のイコノスタシス。ウィリアム・ブラムフィールド撮影。2015年8月10日。

 ヴォログダ州西部、シェクスナ川とヤゴルバ川の合流点にあるチェレポヴェツは、ロシア最大の鉄鋼企業の一つ、セヴェルスターリ(「北部鋼鉄」)の本社があることで知られている。現在の街の人口はおよそ31万8千人だ。

復活大聖堂の南側。ウィリアム・ブラムフィールド撮影。2017年1月4日

 シェクスナ川左岸の高台にあるこの地域には、10世紀頃にはスラヴ人が定住し始めたが、チェレポヴェツが公的地位を得たのは1770年代のことだった。町の中心となったのは、モスクワ大公国の修道士世界の総本山、至聖三者聖セルギイ大修道院から来た修道士フェオドーシーとアファナーシー(1392年没)が1362年頃に建てた復活修道院だった。

チェレポヴェツ。シェクスナ川右岸から望んだ北の景色。左はロジデストヴェンスコエ村のハリストス降誕教会。セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー撮影。1909年夏。

 丸太造りの修道院は、1610年、皇位継承問題に絡む社会不安(「動乱時代」)の中でポーランド・リトアニア軍によって焼かれた。修道院の最初の石造りの構造は、1752年から1756年にかけて再建された復活教会(1713年に落雷で焼失)で、前駆授洗イオアンと聖フェオドーシー、聖アファナーシーに捧げられた副祭壇が2つあった。

ハリストス降誕教会。南西側。ウィリアム・ブラムフィールド撮影。2015年8月10日。

 復活修道院は、エカテリーナ大帝による修道院所有物の世俗化政策の一環で1764年に閉鎖された。1777年にチェレポヴェツが町としての地位を得ると、教区の所有物になった教会は復活大聖堂となった。地方都市を発展させようというエカテリーナ大帝の試みの一環で、チェレポヴェツは1782年に川を見下ろす大聖堂を中心とする公式の街路整備計画を与えられた。プロクジン=ゴルスキーの写真は、大聖堂の立地的優位性をはっきりと示している。

ハリストス降誕教会内部。玄関の東のイコノスタシス。ウィリアム・ブラムフィールド撮影。2015年8月10日

 1934年に大聖堂が閉鎖されると5つの装飾丸屋根は破壊されたが、19世紀半ばの壁画は残った。大戦中、建物は航空機エンジンの修理工場として使われたが、1946年に街の信仰の場の一つとして正教会に返還された。丸屋根は1980年代後半に修復された。

ハリストス降誕教会。北側。ウィリアム・ブラムフィールド撮影。2010年1月2日

 プロクジン=ゴルスキーは、やや北側の地域も撮影している。ランドマークは、旧ロジデストヴェンスコエ(「降誕」)村に1789年に建立されたハリストス降誕教会だ。川岸に佇む新古典主義様式の教会が、プロクジン=ゴルスキーの写真に上手く収められている。

チェレポヴェツ。シェクスナ川右岸から望んだ北東の景色。中央は「生命を与える泉」の生神女のイコンの礼拝堂。セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー撮影。1909年夏

 降誕教会は1931年に閉鎖されて工業用途で使われ、荒廃した。残っていた構造体も1989年の火災で激しく損壊した。1992年から1997年の間に復活した教区が教会と鐘楼を再建し、現在では私の写真に見えるように、元の姿を取り戻している。

「生命を与える泉」の生神女のイコンの礼拝堂。南側。ウィリアム・ブラムフィールド撮影。2017年6月11日

工業の拡大

 チェレポヴェツの成長の主な起爆剤となったのが、1810年のマリインスキー水路の拡大だった。水路の大分を占めるシェクスナ川沿岸の主な居住地として、チェレポヴェツは造船、船舶修理、船曳きの拠点となった。19世紀半ばまでに人口は3倍以上増加し、3000人以上に達した。

チェレポヴェツ湾。シェクスナ川右岸から望んだ北東の景色。左寄り中央は「生命を与える泉」の生神女のイコンの礼拝堂。セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー撮影。1909年夏

 1861年の農奴解放後、チェレポヴェツはイワン・ミリューチンの精力的な主導の恩恵を受けた。ミリューチンは水運業で巨万の富を築いた実業家で、町の河川施設を発展させただけでなく、1861年からは町長を務め、1907年に死去するまで職を全うした。公的な学校教育を一年しか受けていなかったにもかかわらず、ミリューチンは優れた商売の才覚を有していた。彼の慈善活動によって町にいくつかの学校が開かれ、インフラも大幅に改善した。イワン・ミリューチンの家は、もともとプロクジン=ゴルスキーの写真の一枚に写る木立の向こうにあったが、精巧に再建され、現在はヤゴルバ川とシェクスナ川を見渡す公園に佇んでいる。

 町の中心から南に行った所で、プロクジン=ゴルスキーは洋々たるシェクスナ湾を撮影している。岸には「生命を与える泉」の生神女のイコンの礼拝堂が見える。1880年代に建てられたこの礼拝堂は、1924年に閉鎖され、ソ連時代に酷く荒廃した。私の写真に写るのは、今世紀初めに復元されたものだ。

 プロクジン=ゴルスキーが1909年の晩夏に写真に収めた牧歌的な風景は、都市開発によって変貌を遂げたが、チェレポヴェツはランドマークを保全し、河岸沿いに公園を作ることに成功している。プロクジン=ゴルスキーの写真は、この街の歴史的な遺産を守る上で非常に重要である。

チェレポヴェツ湾とシェクスナ川に架かる吊り橋。シェクスナ川右岸から望んだ北西の景色。ウィリアム・ブラムフィールド撮影。2010年1月2日

 20世紀初め、ロシアの写真家のセルゲイ・プロクジン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、1903年から1916年にかけてロシア帝国を旅し、この技術を使って、2千枚以上の写真を撮った。その技術は、ガラス板に3回露光させるプロセスを含む。プロクジン=ゴルスキーが1944年にパリで死去すると、彼の相続人は、コレクションをアメリカ議会図書館に売却した。21世紀初めに、同図書館はコレクションを電子化し、世界の人々が自由に利用できるようにした。1986年、建築史家で写真家のウィリアム・ブラムフィールドは、米議会図書館で初めてプロクジン=ゴルスキーの写真の展示会を行った。

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