アクセス:モスクワからバスで6時間ほど
コストロマ訪問の気分を盛り上げるなら、民謡アーティストグループ「イワン・クパーラ」の歌「コストロマ」は必聴だ。コストロマと言えば、ロシア人なら誰でも、その旋律を思い浮かべるだろう。歌詞の意味はおおよそ、「コストロマでは糸を紡ぎ、カッテージチーズを塗ったパンケーキ(ブリン)を食べ、ミルクを入れたフルーツゼリー(キセーリ)を飲む」といったところだ。
コストロマでやるべきことの簡単なチェックリストは次の通り。
- 大河ヴォルガの川岸を散策する。
- イパティエフ修道院を訪れる。
- お土産に亜麻製の靴下を買う。
- スネグーロチカとは誰か、なぜここに彼女の博物館と館があるのかを知る。
- 神現修道院で、イコン「奇跡を起こすフェオドロフスカヤの聖母(生神女)」を見る。
- 古いアーケードを散策する。
コストロマは、モスクワ同様、キエフ大公ユーリー・ドルゴルーキーにより建設されたが、首都より5年遅れている。
コストロマの歴史は、北東ルーシ(ロシアの古名)の他の都市と似通っている。この都市は、中世において群雄割拠し派遣を争っていた公たちにとって、要衝の地の一つであった。初めは、ウラジーミル・スーズダリ大公国の一部だったが、その後は分離し…。
だが、何と言ってもこの都市の歴史を画すのは、それがロマノフ王朝の揺籃の地となったことだろう。
イパティエフ修道院
まずは、街の端にあるイパティエフ修道院から探訪を始めよう。それは、コストロマ川の高い岸辺にそびえている(ここはヴォルガ川との合流点に近い)。かつて、堅固な城壁を備えた要塞が、都市の郊外に防衛施設として築かれた。その正確な日付は分からないが、年代記で修道院が初めて言及されるのは1432年だ。
1613年、モスクワの大貴族たちがここにやって来て、16歳のミハイル・ロマノフに、彼がツァーリに選出されたことを伝えた。ロマノフ家は、イワン雷帝(4世)の、正確には、彼の息子でリューリク朝最後のツァーリとなったフョードル1世の縁戚だった(フョードルの母は、雷帝の最初の妻アナスタシアで、彼女はロマノフ家の出である)。
修道院の至聖三者大聖堂(トロイツキー大聖堂)で、ロマノフ朝初代ツァーリの承認の儀式が行われた。そして、その300年後、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世が当地を訪れ、 ロマノフ朝300年を祝った。
ソ連時代には、修道院は閉鎖され、甚大な損傷を被った。最も美しい聖堂の一つは取り壊されてしまった。しかし、1989年以来、修道院で再び奉神礼(カトリック教会の典礼に相当)が行われている。至聖三者大聖堂(トロイツキー大聖堂)とロマノフ家の赤い館はぜひ訪れてほしい。ここは今博物館になっている。
修道院正門のすぐ向かいには、お土産や亜麻製品を扱うこじんまりした市場がある。また、小さなカフェもあり、メドヴーハ(蜜酒)やスビテン(ロシアで伝統的に冬に飲まれてきた温かい飲み物)を飲んだり、コストロマ産のゼフィール(マシュマロに似た菓子)を味わったりできる。
都市の中心部
歩道橋で街の中心部に移動してみよう。奇妙なことに、これは街の最古の部分ではない。かつて完全に焼失してしまったので、18世紀にエカテリーナ2世の下で再建されたからだ。女帝は、コストロマを工業の中心地として再開発することに決めた。ところで、市の紋章にはガレー船が描かれているが、女帝はこれに乗って、ヴォルガ川沿いに当地にやって来たのだ。
街の中心部には、スサーニン広場がある。17世紀初めの国民的英雄、イワン・スサーニンを記念して名付けられた。伝説によると、ポーランドの侵略者たちは、新帝ミハイル・ロマノフの隠れ家を突き止めようとしてスサーニンを拷問したが、彼は白状しなかったばかりか、ポーランド軍を森と沼地に引きずり込んだ。
それ以来、スサーニンという姓は普通名詞になった。しばしば冗談めかして、こんがらがった道筋を歩かせる山岳ガイドを「スサーニン」と呼ぶ。
スサーニン広場の見所の一つが、古典主義様式で建てられた火の見櫓だ。これはロシアで最も美しい塔とされている。
広場の、道路を挟んだ向かい側には、古いアーケードと教会のある中央市場の区画全体が保存されている。クワス(黒パンなどで作るロシアの清涼飲料水)、小麦粉、小物などの店があり、今日も営業している。
アーケードは、ヴォルガと川の桟橋の近くに位置し、ここには水上レストランもある。だから、河岸通りに直行し、中央公園を散歩することをお勧めする。これは、コストロマの旧クレムリンの跡地に造られている。