古都ウグリチ:帝政時代と現代の写真から蘇る悲劇

ウグリチ。「血の上の聖デミトリオス聖堂」。南側。2007年7月16日。

ウイリアム・ブルムフィールド撮影
 イワン雷帝の遺児、皇太子ドミトリーが非業の死を遂げた古都ウグリチ。そのたたずまいを、帝政時代と現代の写真を比べつつ、思い描いてみよう。

 

ウグリチ。「血の上の聖デミトリオス聖堂」。南側。2007年7月16日。

 20世紀初め、ロシアの化学者で写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、ロシア帝国の多様性を記録するために、この新しい方法を使おうと思い立ち、1903年から1916年にかけて全国各地に数多くの旅をした。

 プロクディン=ゴルスキーは、交通の便、ロジスティクスの面で、帝国運輸省から支援を得た。同省は、水路での彼の写真撮影と鉄道旅行を容易にしてくれた。そのおかげもあり、1910年と1911年のヴォルガ川沿いの彼の旅は、多くの実りをもたらしたことが後に分かった。

ウグリチ公の館。西側。左は「血の上の聖デミトリオス聖堂」。1910年晩夏。

 1910年の夏、プロクディン=ゴルスキーは、ウグリチからゴロデツまでヴォルガを旅した。ウグリチ探訪は、多数の写真をもたらしたが、残念なことに、アメリカ議会図書館にある彼のコレクションには、それらのオリジナルのガラス板は含まれていない。その運命は不明だ。おそらく、第二次世界大戦前の歴史の変動のなかで損なわれてしまったのだろう。

 しかし、プロクディン=ゴルスキーは、3枚のガラスネガのマゼンタ(赤紫色)の部分からコンタクトプリントを作成していた。そしてウグリチのモノクロプリントは、優れた品質だったことが判明。一方、筆者ウイリアム・ブルムフィールドのこの街への訪問は、1987年から2007年まで、20年間にわたって行われた。

ウグリチ公の館。南西側。1997年7月30日。

 プロクディン=ゴルスキーがヴォルガ流域で撮影したすべての街のなかで、モスクワ北東200kmに位置するウグリチほど悲劇的色彩を帯びたところはないだろう。この地で、イワン雷帝の8歳の息子ドミトリーが、1591年5月に非業の死を遂げた。この事件は、ロシアを長年にわたり破滅的な大混乱に陥らせる導火線の役割を果たすことになる。

 ウグリチはいつ建設されたか?検証可能な日付はないが、10世紀半ばには存在していたことが、考古学的な証拠から推測される。この街は、ヴォルガ川の曲がり角に位置するので、そこからウグリチの名が付いたと考えられる。ロシア語の角を意味する「ウゴル」(英語のアングルに相当)から派生したものだろう。

ウグリチ公の館。北側。19世紀末にニコライ・スルタノフが建て増しした階段が見える。1987年8月9日。

 1216年から1605年にかけて、ウグリチは、小さな公国の中心都市だった。モスクワ公国に吸収されたその種の領邦としては最後のものだ。小さな城砦(クレムリン)の中に、公の館の廃墟が残っており、その点でも唯一の公国である。

 この館は、ヨーロッパ標準にもとづく控えめな構造で、そのレンガのパレス(ロシア語ではパラートゥイ)はもともと、モスクワ大公イワン3世(大帝)の息子アンドレイのために、1480年代に建てられた。

 考古学が証拠立てるところによると、それは、低い階に上階が乗った、横長の平屋建てだった。ウグリチ公でもあった皇太子が死んだのは、この宮殿の北側だった。

「血の上の聖デミトリオス聖堂」。南側。1910年晩夏。

 18世紀になると、この宮殿の多くの部分が、隣接して建てられたスパソ・プレオブラジェンスキー大聖堂(救世主顕栄大聖堂)にレンガを提供した結果、崩壊した。

 残ったのは、玉座室を含む、隣接する建造物だけ――これも、良い状態ではなかったが。19世紀初めに行われた修復では、旧約聖書の『箴言』に題材を取った、希少な初期フレスコ画が失われてしまった。

 皇太子ドミトリー死去から300年となる1891年に向けて、資金が支出され、大規模な改修が行われた。これを指揮したのは、サンクトペテルブルクの建築家、ニコライ・スルタノフ。彼は、19世紀後半のロシアの復古調の代表格であった。

 スルタノフは、想像力を働かせて、装飾的なポーチや入り口を北側に追加した。プロクディン=ゴルスキーの写真では、西側が写っており、ポーチは薄暗くしか見えない。筆者は両側からこの建物を撮影することができた。

「血の上の聖デミトリオス聖堂」。ヴォルガ川から見た北東側。前面は、建て増しされた、ヤロスラヴリの名匠たちが建てた礼拝堂(1860~61)。後方は鐘楼。1991年8月9日。

 皇太子ドミトリーは、イワン雷帝とその7番目の皇妃マリヤ・ナガヤの間に生まれた(正教会の教会法では、正当な結婚と認められていない。3度目の結婚までしか合法とされないため)。彼が死んだのはまさしくこの宮殿の近くであった。

 彼の死をめぐる状況は不明だ。ナイフを投げたりして遊んでいたときに、てんかんを病んでいた皇太子がうっかり自分を傷つけてしまった――。この説が現在では受け入れられつつある。

 別の説では、皇太子はお付きの者たちに殺され、彼らもまた、その死体を見て怒った群衆に殺されたという。これはさらに、永遠に人口に流布し続けるであろう伝説を生み出した。すなわち、狡猾な大貴族ボリス・ゴドゥノフ(1551~1605)が糸を引いた暗殺事件だというのだ。

 ボリス・ゴドゥノフは、リューリク朝の最後のツァーリ、フョードル1世(1557~98)の治世に、摂政として実権を握っていた。捜査委員会は、皇太子は「事故死」であると報告した。

「血の上の聖デミトリオス聖堂」。西側。正門の上に鐘楼が見える。1910年晩夏。

 しかしその後、ロマノフ朝が成立するにおよんで、皇太子ドミトリーの死は、ボリス・ゴドゥノフの仕業とされるようになった。が、19世紀になると、幾人かの著名な歴史家が「ゴドゥノフ真犯人説」に疑問を呈し始めた(もし彼がそんなことをすれば、子のないフョードル1世の摂政をしていた彼が真っ先に疑われるのは必至である。しかもドミトリーは教会法によれば非嫡出子であり、即位できたかどうか分からない)。

 1598年にボリス・ゴドゥノフが正式に即位すると、この精力的で賢明な支配者の政策が、彼の摂政時代と同じく、ロシアの国益にかなうことを、人々は期待した。

 しかし、彼は野望に憑かれており、政敵とにらんだ者への冷酷な行動で知られていた。例えば、ロマノフ家だ(イワン雷帝の若死にした最愛の妻、アナスタシア・ロマノヴナはこの一族の出身だった)。

 ボリス・ゴドゥノフが皇太子ドミトリーを殺したという噂は、政治的陰謀や一連の自然災害、それによる打ち続く飢饉とあいまって、彼の権威を損なった。ボリスが1605年に死去し、彼の家族がクレムリンで殺害されると、社会の混乱と絶えざる闘争、戦争の時代が始まった。いわゆる「大動乱(スムータ)」の時代だ。

「血の上の聖デミトリオス聖堂」。西側。正門の上に鐘楼が見える。1997年7月30日。

 1613年のロマノフ朝初代ツァーリ、ミハイル・ロマノフが即位すると、ようやく荒廃したモスクワ公国に秩序が戻り始めたが、まだ何年かは戦闘や無秩序があちこちに残った。

 ウグリチには、皇太子ドミトリーの死についての痛ましい記憶が漂っており、そこから癒される必要があった。そのため、この街は教会と礼拝堂で満たされた。その数は、教会が約30で、それにくわえて修道院が3つあった(しかし、これらの教会のおよそ半分はソ連時代に破壊された)。

 そのなかでも特筆すべきものは、「血の上の聖デミトリオス聖堂」だ。皇太子ドミトリーが非業の死を遂げた、まさにその場所に建てられたことから、そう命名された。

 ドミトリーが列聖された1606年には、この場所にまず木造の礼拝堂が、ついで1630年には木造の教会が建立された(1606年にドミトリーの遺骨は、歴代皇族が眠る、モスクワのクレムリンの聖天使首ミハイル大聖堂〈アルハンゲリスキー大聖堂〉に移された)。

「血の上の聖デミトリオス聖堂」。陶製のタイル。南側正面。1987年8月9日。

 ドミトリー没後100周年が近づくにつれて、若い共同統治者――ピョートル1世(大帝)とイワン5世――の後援により、レンガ造りの教会の建設が始まった。二人のツァーリは、1682年から1696年まで、ロシアの王朝の、やはり混乱した時代を治めた。

 「血の上の聖デミトリオス聖堂」は、1692年に成聖(聖別)されたが、その設計は、17世紀の伝統的な形態をとっている。1階建ての回廊の西端に入り口があり、その上に鐘楼がそびえている。

 東側の壁がのびているところに、後陣(外に向かって半円形に張り出したところ)があり、そこに主要なイコノスタス(聖障)もある。まさにここがドミトリーの死に場所であると言われている。

「血の上の聖デミトリオス聖堂」。ヴォルガ川から見た北東側。前方では、ヴォルガ川で洗濯をしている。右はスパソ・プレオブラジェンスキー大聖堂(救世主顕栄大聖堂)。1910年晩夏。

 ドミトリーの死の状況をめぐる議論はまだ続いているが、「血の上の聖デミトリオス聖堂」は、それらの議論を超越して、ウグリチの主要な歴史的遺跡となっている。数万人の巡礼や観光客が毎年訪れるこの教会は、ヴォルガ河畔に今もそびえ、ロシア美術の至宝として精彩を放っている。 

 ウグリチのクレムリン。ヴォルガ川から見た北東側。左から、「血の上の聖デミトリオス聖堂」、鐘楼、カザンの生神女(聖母)聖堂、スパソ・プレオブラジェンスキー大聖堂(救世主顕栄大聖堂)。1991年8月9日。

プロクディン=ゴルスキーによる帝政時代のカラー写真

 20世紀初め、ロシアの写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、1903年から1916年にかけてロシア帝国を旅し、この技術を使って、2千枚以上の写真を撮った。その技術は、ガラス板に3回露光させるプロセスを含む。

 プロクディン=ゴルスキーが1944年にパリで死去すると、彼の相続人は、コレクションをアメリカ議会図書館に売却した。21世紀初めに、同図書館はコレクションを電子化し、世界の人々が自由に利用できるようにした。

 1986年、建築史家で写真家のウィリアム・ブルムフィールドは、米議会図書館で初めてプロクディン=ゴルスキーの写真の展示会を行った。

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