サスペンスな街ウグリチ

モスクワ市から北北東240キロに位置するヤロスラヴリ州ウグリチ市は、絵のように美しい街でありながら、その外観にふさわしくない歴史が眠る街だ。

ウグリチは、少年がナイフを手に持った絵が市章になっている、世界でも珍しい市だ。ウグリチの歴史を知ると、アガサ・クリスティーはここの出身者かと錯覚するほどだ。

この街の公(君主)は即位からわずかな期間に、後継者を残さずに死亡したり、突然失踪したり、精神に支障をきたしたり、刑務所に入ったり、親戚が無理やり剃髪させられて修道院に送られたり、失明したり、川で水死させられたりと、次々に不可解なことが身に起こっている。


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皇太子ドミトリーの怪死

イワン雷帝の息子である、ドミトリー・イヴァノヴィチ皇太子の悲しい人生は、この街に来た時から決まっていたかのようだ。この皇太子が、ウグリチ市の市章に描かれている人物だ。8歳でこの世を去ったが、その後22年に渡って続いた「動乱時代」と呼ばれる政治危機の大部分は、正に皇太子の非業の死と関係している。

ドミトリーは、イワン雷帝の6回目の結婚で生まれたにもかかわらず、ロシア正教会は嫡出子として認めなかった。それでもイワン雷帝の死後、病弱な息子のフョードル1世が後を継いでからは、ドミトリーがリューリク朝唯一の帝位継承者となっていた。しかし、彼とフョードル帝は、10年足らずのあいだに相次いで亡くなり、リューリク朝は断絶する。

皇太子の死亡について、当時目撃した人の話では、ナイフ投げ遊びをしている最中に亡くなったという。この遊びは、地面にしるしをつけ、その手前から地面に突き刺さるようにナイフを投げ、一番遠くへ投げた人が勝つというもの。遊んでいる最中に皇太子はてんかんの発作を起こしてけいれんし、持っていた小剣を誤って自分の喉に刺してしまった。

舌を切られた鐘 

死後15年経過した1606年に列聖された。皇太子の墓とそのわきにつくられた小礼拝堂のまわりには、その後児童墓地ができた。ウグリチでは今でも、毎年5月28日にドミトリー皇太子追悼記念が行われている。ウグリチ市民に皇太子の死去を知らせ、動揺させた鐘は、舌が切断されてからシベリアのトボリスクに”流刑”にされたが、300年後にウグリチに戻され、今はウグリチ国立歴史・古文書・芸術博物館の展示品になっている。

皇太子死去後の動乱時代、ウグリチは破壊され、略奪されたが、主たる劇的な物語はすでに幕を閉じていた。17世紀後半から19世紀初めの歴史的な街並みは、現在にいたるまでほとんど変わっていないが、美しさは増した。新しく出現したものは、ソ連時代の1935年から1955年に囚人が手作業で造った貯水池や水力施設で、街の風景にぴったりと合い、一見のんびりとしていながらも、劇的効果を与えている。

悲劇につぐ悲劇 

ドミトリー皇太子までのウグリチ歴代の公の話もとても悲劇的だ。

最初のウグリチ公ウラジーミルの息子たちは、後継者を残すことなく亡くなった。

ヤロスラヴリ公フョードル・チョールヌイの息子アレクサンドルは、君主の消えた公国を引き継いだが、失踪した。

アレクサンドルの後に、ロストフ公の息子アレクサンドルがここを統治したが、同様に消えた。

その後しばらくして、アレクサンドルの唯一の息子ユーリーが、子供を残すことなく20歳で死亡した。

モスクワ大公イワン・カリターがウグリチ公国も統治したが、ドミトリー・ドンスキーの息子コンスタンチンがここを引き継ぐと、5年後に同じく子供を残すことなく死亡する。

次のウグリチ公アンドレイ・ボリショイは、モスクワ大公ドミトリー・シェミャカを熱烈に支持していた父のワシーリー2世が流刑地にいた時に生まれたが、兄のイワン大帝に嫌われて牢獄に送られ、謎めいた状況のなかで亡くなった。

アンドレイの息子たちは長期の監獄生活を終えた後、修道士になった。

公としてウグリチを統治した、イワン雷帝の弟ユーリー・ヴァシリエヴィッチは精神に支障をきたし、その唯一の息子は幼少時代に亡くなり、妻はゴリツィ復活修道院の修道女になった後、皇帝命令で密かにシェクスナ川で水死させられた…。

観光スポット:美と恐怖 

水量豊かな貯水池、水辺に浮かぶウグリチ・クレムリン、修道院、中二階のある家、教会、商人の邸宅や貴族の邸宅、中心通りの火の見やぐらなど、この街にはクラシック絵画から飛びだしてきたような風景が広がっている。

この街にはボルガ川の船旅で訪れる観光客が多いため、ホテル、カフェ、さまざまな国立または私立博物館などがたくさん用意されている。

中でもろう人形の館のような、ロシア民族神話・迷信博物館には、ゾクゾクするような楽しさで、「吸血鬼の骨模型」などの展示品は見ごたえがある。

古い牢獄が大学寮に 

私立刑務所芸術博物館は刑務所をテーマにした博物館で、これも一風変わっている。ところで、古いウグリチ牢獄の建物はこの博物館にぴったりだが、残念ながら今のところ教育大学の寮のままとなっている。

もう一ヶ所観光に欠かせないスポットは、ウグリチ・クレムリン、尖頭型の屋根が3つそびえ立つ生神女就寝美妙教会、復活修道院だ。教会と修道院の建物は、建築の目利きに長けていた、有名なロストフのイオナ府主教の努力で1674年から1677年に建設されたもので、その後府主教はここで剃髪式を行った。

ここの近くにはボルガ川の洗礼者イオアン降誕教会もある。この見事な教会は、富豪商人のニキフォル・チェポロソフが1690年、誘拐されて惨殺された息子のイワンの追悼のために建設したものだ。これもサスペンスなウグリチのもうひとつの歴史である。

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