皇帝一家殺害に残された謎

血の上の教会=ロシア通信

血の上の教会=ロシア通信

ロシアのラスト・エンペラー、ニコライ2世とその一家の最後の旅路を跡づけ、ロシア史上最も有名な殺害事件に残された謎に迫る。

 エカテリンブルクは既に長年、「皇帝一家が殺害された地」という不吉なイメージを拭おうと躍起になっている。

 ニコライ2世は、1917年の2月革命後に退位に追い込まれ、家族とともに、首都サンクトペテルブルク近郊のツァールスコエ・セローのお気に入りの離宮、アレクサンドロフスキー宮殿に軟禁されていた。

 その後、臨時政府は、皇帝一家をその「安全のため」、シベリアの僻遠の地、トボリスクに一定期間移すことに決めた。こうして、ウラルとシベリアで皇帝一家は、終焉の地に至る最後の旅路を辿っていくことになる。

 旅路は、チュメニの滞在地からトボリスクを経由し(ここでは一家は、知事の邸宅に住み、規則正しい生活を送り、生神女福音(受胎告知)教会で、勤行に連なることもできた)、エカテリンブルクで終わる。

 当地は、モスクワに移送されるまでの一時的な滞在地になるはずだった。全ロシア中央執行委員会(ソビエト連邦最高会議の前身)の決定によれば、ロマノフ一家は首都で裁判にかけられるはずだった…。

 今日、皇帝一家の道程を辿ろうとする人は、チュメニからの道すがら、グリゴリー・ラスプーチン博物館をポクロフスコエ村に訪れることもできる。祈禱僧ラスプーチンは、皇帝一家のお気に入りで、皇太子アレクセイの血友病の症状を和らげたとされている。

 なお、終焉の地エカテリンブルクを訪ねたら、アパラエスクに立ち寄ることもできる。ここで、皇后アレクサンドラの姉で美貌をうたわれたエリザヴェータら、大公女たちが殺害された。また、ペルミでは皇弟ミハイルが、ヌイロブではツァーリの叔父、フョードル大公が殺されている…。

 以下、エカテリンブルクにしばし留まって、皇帝一家の終焉の地を詳しくご紹介しよう。

 

血の上の教会

 皇帝一家の最期の地を旅する人は、まずここを訪れる。この教会は、一家が銃殺されたとみられる場所に建てられた。ここには、1977年まで通称「イパチェフ館」が存在していた。元々、商人ニコライ・イパチェフの館だったのが、1918年に皇帝一家の幽閉場所として接収されたものだ。

 一家はここで2ヵ月半過ごすうちに、最後の復活祭、ニコライ2世の50歳の誕生日を迎え、公式の説によれば、ウラル・ソビエト執行委員会の決定により、7月16日から17日にかけての夜、半地下室で銃殺された。一家とともに、料理人、従僕、メイド(女官)、ホームドクターのエフゲニー・ボートキンが殺された。

 主な実行犯で銃殺隊を率いていたヤコフ・ユロフスキーは、その手記の中で、皇帝一家は直前まで処刑されることを知らなかったと述べている(ユロフスキーは、KGBの前身チェーカーから派遣されていた)。最初の一斉射撃の後、皇太子アレクセイと3人の大公女はまだ息があったという。銃殺隊は驚き、直接心臓を狙ったが、弾丸はシャツの下の宝石に当たって跳ね返った。大公女の一人は、銃剣で刺殺しようとしたが、コルセットが邪魔した…。 

 …ソ連共産党中央委員会の決定でイパチェフ館が撤去されると、この場所はほぼ四半世紀空き地になっていたのに、多くの旅行者や巡礼を磁石のように引き付けた。1989年以来毎年この場所では、7月16日~17日の夜に祈祷が執り行われている。1990年には初めて木製の十字架が建立されたが、心無い者たちに何度も壊されたので、金属製のものに替えられ、これが今日まで立っている。

 2000年には、ロシア正教会は、皇帝一家を新致命者(しんちめいしゃ)として列聖している。その3年後には、イパチェフ館跡に「血の上の教会」が建てられた。ここには、処刑場所となった半地下室も再現されており、博物館には、一家の最後の日々に因んだ展示品がある。降誕祭には、氷の彫刻のフェスティバル「ベツレヘムの星」が行われ、復活祭週には、希望者は誰でも鐘楼に上り、鐘を鳴らすことができる。

 また教会には、他に例のないユニークなオクトイフ聖歌隊学校(オクトイフは祈祷書)や鐘つき人・聖像画家学校が付属している。

 7月半ばともなれば、皇帝一家を記念する長時間の晩祷に参列するために、多くの巡礼が集まってくる。晩祷は、エカテリンブルクから17kmのところにあるガニナ・ヤマまでの十字架行進で終わるのが通例だ。ここは、一家と召使たちが処刑後に埋められた場所と推定されている。

 「血の上の教会」の住所:スヴャトーイ・クヴァルタール1

 

最初の埋葬地、ガニナ・ヤマ

ガニナ・ヤマ=パヴェル・リシツィン撮影/ロシア通信

 最初の埋葬地は、廃鉱のイセツキー鉱山で、エカテリンブルク近郊の森の中にある。そのかつて鉄鉱石を採掘していた、水没した坑道に、イパチェフ館で銃殺された皇帝一家と召使の遺体が棄てられたと推定されている。

 巡礼者たちは、旧コプチャコフスカヤ街道を通ってガニナ・ヤマに至ろうとする。なぜなら、最も流布した説によると、この道を通って遺体が運ばれたからだ。今では、街道沿いに建物が立ち並んでいる。

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 …ユロフスキーの手記によれば、大公女タチアーナ、オリガ、アナスタシアは特殊なコルセットを身につけていたという。死体は、遺棄するに当たり、裸にされた。彼女らの首には、ラスプーチンの写真と祈祷文がぶら下げられていた。コルセットには、ダイヤモンドなどの宝石が入っており、全部合わせると8kgほどにもなった。ユロフスキーの言うところを信じるならば、これらの発見された宝石類は、アラパエフスク工場の地下に隠され、後に掘り出されてモスクワに送られた…。

 2000年にロシア正教会の最高指導者アレクシー2世は、ガニナ・ヤマでの修道院建立に祝福を与えた。3年後には森の中に、古の「木造のルーシ」さながらの一角が出現した。すなわち、皇帝一家の人数分だけの教会をもつ皇室新致命者男子修道院が建立され、廃鉱の傍らには高さ4mのポクロンヌイ(礼拝)の十字架が立てられた。

 また、その隣には石が置かれ、旧約聖書の「アモス書2章1節」の一節 が刻まれた。「わたしは決して赦さない。彼らがエドムの王の骨を焼き、灰にしたからだ」。これは皇后アレクサンドラが銃殺の2時間前に、生涯最後に書き記した文章だ。

 修道院には、一家の所持していた、聖骸を入れた十字架も保存されている。正教会の見解によれば、ガニナ・ヤマは「生ける代案」、つまり聖人の聖骸で成聖(聖別)された特別な場所だ。

 ガニナ・ヤマへの行き方:ウラルマシを経由し、ニジニ・タギル方面へ標識を見ながら行くか、ヴェルフニャヤ・プイシマを経由し、標識にしたがってスレドネウラリスクと修道院に至るか。

 

2番目の埋葬地、ポロセンコフ・ログ

 これは、エカテリンブルク近郊の軟弱な沼沢の多いくぼ地で、ガニナ・ヤマから旧コプチャコフスカヤ街道を数キロ行ったところにある。皇帝一家と召使の遺体が密かに再度棄てられたのはここだと考えられている。

 銃殺とガニナ・ヤマでの死体遺棄の翌日、慌しい埋葬が誰かに見られていた可能性が判明した。チェーカー要員たちは、廃鉱にとって返し、死体を引き上げると、モスクワ大街道沿いのより深い坑道にこっそり移すことにした。

 ところが死体を運んでいたトラックが、数キロ走ったところで、ポロセンコフ・ログでエンコしてしまう。そこで、ここで死体を降ろし、硫酸をかけて死体を埋めた。

 一説によると、歯科技工士であった、チェーカー要員のフィリップ・ゴロシチェキンが、やはり殺害に関与したピョートル・エルマコフに、まず皇帝夫妻と皇太子の死体をすっかり焼いてしまうように命じた。しかし「歯は焼けない」ため、頭部はそれぞれ別個に硫酸をかけて識別不能にすることにした。死体を切断し、浅い穴に放り込んで顔と体に硫酸をかけた後、土と枯れ枝で埋め、上に枕木を敷き、穴の跡が残らないようにした。

ロシア通信

 1991年夏、ウラルの研究者たちが、古い地図と古文書を頼りに皇帝一家の遺骨収集に向かい、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)近郊で、ポロセンコフ・ログの鉄道の踏み切り近くで9人の遺体を発見した(皇帝一家と召使は全部で11人)。研究者たちは、これこそが皇帝一家と召使の遺骨であるとの結論を出したが、その時は遺骨を埋め戻している。

 旧コプチャコフスカヤ街道沿いでの探索が再開されたのは2007年夏のこと。1991年に掘られた場所からわずか25mのところで、頭蓋骨の上部と、歯が数本残った下顎、それに両脚のついた骨盤が2つ発見された(一つは男性、もう一つは女性のものだった)。さらに、複数の釘、木製戸棚の角の部分、陶器の破片も見つかった。収集に当たった人たちは、これが皇太子アレクセイと大公女マリアだと結論した。

 現在、ポロセンコフ・ログは森の中のかなりがらんとした空き地になっており、「ロマノフ家の記念」と記された門と、その後ろに木製の十字架が立っている。

 

残された謎は

 研究者の中には、これらの遺骨は皇帝一家とは何の関係もないし、ポロセンコフ・ログも彼らの終焉の地などではないと見ている者もいる。

 「遺骨が見つかったのと同じ地層から発見されたものの中に、あまり世間に広く知られていないものが含まれていた。1930年発行の15コペイカ硬貨だ。また、その後の調査でも、1943年発行の1コペイカ、3コペイカ、5コペイカの硬貨が出てきたし、1934年に製造が開始された拳銃トカレフTT-33の3つの弾丸まで見つかっている」。こう記者団に語るのは、「ロマノフ家殺害状況調査センター」所長で、ロシア歴史・政治学アカデミー教授でもある、エカテリンブルク出身のワジム・ヴィネル氏だ。

パヴェル・リシツィン撮影/ロシア通信

 ポロセンコフ・ログで発見された遺骨は、暫定的に皇帝一家のものとみなされて、サンクトペテルブルクのペトロ・パヴロフスク聖堂に現在保管されているが、ロシア正教会はこれを皇帝一家の遺骨とは認めていない。

 一家の遺体が埋められた正確な場所は分からない。遺体の隠滅は殺害よりもさらに極秘のうちに行われた。殺害に関わった(とされる)者たちの手記も、無条件には信頼できない。さらに未だに未解決の問題がある。そもそも銃殺はあったのか?それというのも、指令を発した大本の人物は特定されていないし、したがって、そんな指令があったかどうかも定かではない。レーニンは、少なくともある時点では、皇帝一家を裁判にかけるために移送するよう求めていた。翻って、自分を皇帝一家の生き残りだと称した人物は、これまで約230人、世界各地に様々な時代に出現している。