バルト海(写真下)、カリーニングラードを走っているローマン車(写真左上) =マックス・アブデエフ撮影、防波堤(写真左下)=アントン・パニン撮影
発掘を待つ埋蔵物
カリーニングラード地方では、古銭や短剣、第二次世界大戦時の銃、装飾品や兜(かぶと)、ヘルメットや長持ちなどが深さ数十㍍の地中に埋もれ、発掘される時を待っている。この土地の人は誰もが、本職でなくとも考古学者や秘宝探検家の天分を備えている。
地元の人々はカリーニングラード州を「パトスの地」と呼ぶ。
ソ連の歴史家レフ・グミリョフによれば、ある時代には活動への抑えがたい志をもつ多数の人々が世界各地に生まれる。
こうしたパトス(情熱)がしばしば時間や健康や命さえも犠牲にしてまで、彼らを遠い戦闘へ赴かせ、新天地を開かせ、芸術作品を創造させ、科学の発見を可能ならしめた。カリーニングラードの地は正にパトスが渦巻く歴史に彩られてきた。
ケーニヒスベルクの橋
バルト海から潮風が吹くカリーニングラード。強風はプレゴーリャ川の水上で速さを増して海岸通りを滑り、港湾ドックの建物に吹きつける。この川には15本の橋が架かる。
市内にある橋については、同じ橋を二度渡らずに一筆書きのようにケーニヒスベルク(ドイツ語で「王の山」、カリーニングラードの旧称)の七つの橋を通れるか、という古い数学の問題(いわゆる「ケーニヒスベルクの橋の問題」)があった。
そこから、数学者のレオンハルト・オイラーはグラフ理論を編みだした。この理論は現代物理・化学・IT分野で応用されている。
ほぼ300年前、「ケーニヒスベルクの偉大な中国人」とニーチェが呼んだ哲学者イマヌエル・カントはプレゴーリャ河畔で時を過ごすのを好んだ。この哲学者は80年の全生涯をケーニヒスベルクで送り、カント島のケーニヒスベルク大聖堂の墓地に眠っている。
カントはこの地で「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」の哲学3部作、「永遠平和のために」などの著作を執筆した。プロイセン最古の大学でありロシア領内で最初のケーニヒスベルク大学(現在のI・カント名称バルト連邦大学)で教員、学長を務めた。
街で出合う名言の碑
=マクシム・アフデエフ撮影
「この世の二つのものが私の心を聖なるおののきで満たす。それは、頭上の星空と私たちの内なる道徳律」。カントの名言が刻まれた記念板は街のあちこちに見られる。
19世紀初頭に大学付属のケーニヒスベルク天文台は天文学研究の巨塔の一つとなった。
ケーニヒスベルクと呼ばれたカリーニングラードは1255年、ドイツ騎士団によって創建された。その後、ポーランド王国を経て、プロシア公領の都となった。
この街はナチスドイツの一部だった際、ポグロム(ユダヤ人虐殺)に手を貸し、「報復」作戦の爆撃にさらされ、攻め入るソ連軍と戦った。ロシア皇帝の「琥珀(こはく)の間」が地下に隠されていると伝えられたケーニヒスベルク城の崩落を古都は嘆き悲しんだ。
今も旧称を思う
ここには今、ドイツ人、ギリシャ人、アルメニア人、ポーランド人、ロシア人、リトアニア人たちが寄り添い暮らしている。
ソ連邦移管後に追放された異邦人たちはしばしばこの地を訪れる。彼らはなじみの場所の旧称を思い、古い街並みや古城を縫うようにそぞろ歩いている。
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