View of the Monument to Sunken Ships in Sevastopol. 01/21/2015
沈没船のモニュメント、セヴァストポリ=ウラジーミル・アスタプコヴィッチ/ロシア通信私はシンフェロポリに到着した。人口33万6460人、クリミア第2の都市である。
ここはリゾート地という雰囲気ではない。中心部には、ソ連時代に建てられた古く色あせた建物や、質屋、シャワルマ(ドネルケバブ)がふるまわれるカフェがたくさんある。
クリミア=セルゲイ・メリホフ
朝のコーヒーでも飲もうと、このようなカフェの一軒に入る。あるテーブルには、4人の女性のグループがいる。そこに加えてもらい、若い頃にシンフェロポリに来たことがあるが、ロシアに編入された後ではなく、ソ連から分離した後と何ら変わっていないと私は話す。
「私たちを見てちょうだい!私たちは幸せなの!故郷に戻ったの、またロシアと一緒よ!」とグループの1人が話す。
「このおばかさんの言うことを聞いちゃダメ。何も変わってない。物価だけがモスクワ並みになった」と友だちが話をさえぎる。
クリミアではこんなやりとりが普通だ。ロシアに編入された後、良くなったか、悪くなったか、という話題になると、あまり具体的な点は出てこない。すべて個人の感覚の話だ。そして怒りが伴うことが多い。前のウクライナ政府に対する怒りや、今のロシア政府に対する怒り。
クリミア=セルゲイ・メリホフ
カフェの隣の建物は、ロシア連邦内務省クリミア交通垂直管理局。モスクワの責任者の許可と正式な書類がなければ、取材をしても答えてはもらえないだろうと思いながら、とりあえず入ってみると、対応が気さくで驚く。
ヤルタ=セルゲイ・メリホフ
捜査部の職員エレーナさんは、記者証の提示も求めず、こう話す。「仕事がとても増えてね。ロシアの法律はウクライナの法律と全然違う。特に行政法違反の部分。はるかに厳しい」
治安当局者が増え、厳しいロシアの法律に移ったため、クリミアで編入の喜びが冷めたところはある。ウクライナ政府を多くの人が嫌っているが、クリミアを編入したロシア政府の魅力も過去のものとなった。
ヤルタ=セルゲイ・メリホフ
特にがっかりしているのが、キオスクの店主である。新政府はクリミアのほぼ全土でキオスクを撤去した。
キーロフ大通りに残っている少数のキオスクの一つの経営者は、こう話す。「以前はギャングと取り決めをしていたが、今はモスクワのギャング、新しい警察、役人と取り決めをしている。やたらと高値になった。これが変わったところさ」
私はシンフェロポリの有名なレストラン「クリミアの庭」の経営者リファト・ベキロフさんと会うため、郊外に向かう。このレストランは、主にクリミア・タタール人の集う場であり、ベキロフさん自身もクリミア・タタール人。ベキロフさんは私に夕食をふるまいながら、ロシアへの編入を当初警戒していたものの、今は喜んでいると話す。ロシアでの事業にも満足している。
リファト・ベキロフさん(右側)=Legion Media
「もちろん、最初はどの事業者にとっても大変だった。登録のしなおし、新しい書類、別の法律...。だが仕事は楽になった。以前は年に10回ぐらい税務署が来て調べていた。今は行政の圧力が減った」
クリミア・タタール人の多くが自分たちの状態に不満を持っているという噂があるのに、話が違うのではないかとたずねてみると、ベキロフさんは哲学的に答えた。
「どんな政府になっても不満を持つ人はいるもの。クリミア・タタール人はいろいろ耐えてきたせいで、どんな国家機関にも不信感を持つようになっているからなおさら。私の祖父はここで飴工場を所有していたが、1937年に没収され、祖母と一緒に中央アジアに追放された。今はこのような問題はない。納税して、ロシアの法律を破らず、イスラム主義的な過激なプロパガンダを行わなければ、いかなる迫害も受けない」
ベキロフさんは別れ際、クリミアのいたるところで聞くフレーズを言った。このフレーズは、新しい秩序に不満を持っている人からさえ聞こえてくる。「ここで戦争がなくてよかった」と。
次に行った先はヤルタ。クリミアの主要なリゾートの一つで、市境に入ると、「幸福の街」という大きな文字が見える。だが汚れやゴミはシンフェロポリよりちょっと少ないぐらいで、道路はデコボコ、観光サービスは以前と変わらず悪い。
ヤルタ=セルゲイ・メリホフ
ロシアへの編入に対する賛否は、人々の活動の種類によってはっきりとわかれている。たとえば、タクシーの運転手は失望と怒りを隠さない。物価上昇により、稼ぎが急減したのだという。
ウラジーミルさんはこう話す。「旅行者は減っていないが、支払い能力はゼロに近くなっている。ロシアは大勢の”享受者”や”予算受給者”をここに送ってくる。つまり、何も買わないたかり屋。我々の生活はここに直接的に左右される」
ロシアが数十億ルーブル(1ルーブルは約2円)の投資を行うことのできた分野で働いている人の意見は、まったく異なる。ソ連の標準的なサナトリウムと大差ない元ピオネール・キャンプ「アルテク」は、今や世界レベルの国際児童センターとして輝きを放っている。教育活動部の副部長であるエリナ・ルツカヤさんは、5万ルーブル(約10万円)の月給を受け取り、喜んでいる。
散歩しているこどもたち。国際児童センター「アルテク」=セルゲイ・マグラコフ/ロシア通信
「プーチンはえらいわ!私のキスを送って!ウクライナが20年かけてもできなかったことを、3年でやり遂げた。ウクライナは私たちを軽んじていた」
ヤルタ出身で、市役所勤続15年以上になる、2014年の住民投票の主催者の一人、イリーナ・ベロジョロワさんは、ロシア政府に対する不満の質問にいらだつ。
「不満を持っている人は、働きたくない人!でなければ、執務室まわりをして、賄賂で好き勝手できてた人。ロシアに入って、秩序がかなり高まった」
ヤルタっ子であるイリーナ・ベロジョロワさん=セルゲイ・メリホフ
住民投票については、興奮気味にこう話す。
「自分の人生で、街があんなに熱狂してたのは初めて。嬉しくて女友だちと泣いた。ウクライナ時代にロシアのパスポートを手に取っては、『いつ私もこれを持てるようになるのか』って思ってた。ずっと、あらゆるところで、自分たちをロシア人だと感じてた。他の法律にしたがって暮らし、自分の言語ではない言語で書類を作成してた」
私の訪問の最後の拠点セヴァストポリは、クリミアの他の場所と比べると別世界だ。清潔で、家の外観は改修されて白い色に塗られ、海岸通りはきれいで、身なりの良い人が多く、自転車、スクーター、おいしい食べ物がたくさんある。
フランス南部の小さな町の静かな生活に似ているが、この街の大規模な親ロシア・デモから、クリミアの2014年の運動が始まったのである。
沈没船のモニュメント、セヴァストポリ=ウラジーミル・アスタプコヴィッチ/ロシア通信
その痕跡をいまだに見ることができる。即席バリケードの欠片、ロシアのトリコロールの色に塗られたバルコニー、窓から吊り下げられたソ連の赤旗、聖ゲオルギーのリボン、セヴァストポリの庇護者のイメージになっている壁面いっぱいのプーチン大統領の肖像画など。
「これでも少ない方。熱狂は過ぎた」と話すのは、この街を案内してくれているユーリャさん。2014年にロシア国籍を拒んだ、数少ない地元住人の一人。今でも持っているのは滞在許可証のみ。毎年更新する必要がある上、これだけでは正式に就職できない。「自分をウクライナ人だと考えていたし、今でもそう。生まれたのはオレンブルク(ロシア)だけど、セヴァストポリに39年暮らしている」
アルタ=セルゲイ・メリホフ
それでも、編入後の街を客観的に評価する。ウクライナ時代とは異なり、秩序が高まって、電気も水も常に供給されている。
「ウクライナはクリミアを見ていなかった、クリミアの問題を理解していなかったと、よく批判されているけれど、これは本当のこと。キエフ(ウクライナの首都)はセヴァストポリにまったく注意を向けていなかった。ここはクリミアで一番親ロシア的な街で、ずっとそうだった。『ロシアよ、来て!』、『プーチンよ、取って!』、『戻りたい!』って。物心ついた時からそんな感じだった」
ヴィクトル・エヴドキモフさんは生まれながらのモスクワっ子。豊かな首都のすべてを投げ捨てて、クリミアに家族と引っ越してきた。
「私自身占領者」と笑う。
ヴィクトルさんの妻クセニアさんと一緒に、海岸通りを散歩する。クセニアさんはモスクワにいた時、クラブ「ザフトラ(明日)」のアートディレクターとして働いていた。2011年に、ロシア下院選挙をきっかけにボロトナヤ広場でデモが行われた祭、反プーチン派がこのクラブに集まった(当然ながら、クセニアさんの許可あって)。
ヴィクトル・エヴドキモフさん、妻のクセニアさん、娘のダーナさん=セルゲイ・メリホフ
「セヴァストポリに来る時はかなり不安だった。我が家ではクリミアがどこのものかでもめてたものだから。夫はロシアの愛国者って感じで。でもここに来て、セヴァストポリは『ロシアの水兵の街』と呼ばれるように、完全にロシアの街だってことがわかったし、編入を強制的な占領と言うことは、少なくとも愚かだってこともわかった。住民は幸せで、街は素晴らしいエネルギーに満ちている。この中には、私が言うのもおかしなものだけど、独自の快感がある」
モスクワで泌尿器科医として成功していた夫のヴィクトルさんは、セヴァストポリでウェイターとして働いている。ゼロからの生活であるが、自身にとって重要なのは「ロシアらしさ」。とはいえ、過剰な愛国的狂乱に対しては皮肉的である。
セヴァストポリ=セルゲイ・メリホフ
「今ここには特にそんなものはない。熱狂が過ぎ去って落ち着いた。給与は高くないが、物価はモスクワ並みになった。それでもセヴァストポリの人はロシアに感謝してる。多くの人にとって、言語の問題は基本的なものだった。ここの学校ではウクライナ語が強制されていたから。人々は自分たちのことをずっとロシア人だと考えていて、ロシア語で話すことのみを望んでいた」
エヴドキモフさん夫妻は今後数年以内に、モスクワのマンションを売却して利益を貯金に加え、セヴァストポリで家を買い(現在は賃貸)、旅行者に喜ばれそうなバーをオープンする予定。
セヴァストポリ=セルゲイ・メリホフ
海岸通りは暗くなり、黒海艦隊の水兵の制服を来たアコーディオン奏者はロシアの伝統的な軍歌「暗い夜」を奏で、次に「勝利の日」を奏で始める。まだ3月で、戦勝記念日のある5月ではないが、奏者のまわりに集まっている老人は、情熱をこめてこの歌をうたう。
セヴァストポリ=セルゲイ・メリホフ
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