「パパとママより好きな神様が死んじゃった」

共産党は、祖国防衛の日を祝う。モスクワ、2013年2月23日(土)=AP撮影

共産党は、祖国防衛の日を祝う。モスクワ、2013年2月23日(土)=AP撮影

1953年3月5日、ソ連の指導者、独裁者スターリンの死去が発表された。翌日6日に、遺体は、モスクワ都心にある同盟会館の円柱の間に安置され、数十万人が告別に訪れた。その多くは、職場や学校から団体でやって来たが、その初日に悲劇が起きた。トルブナヤ広場で凄まじい人の流れをせき止めたところ、そこで数十人から数百人が圧死してしまった。正確な犠牲者の数はいまだに不明だ。

 

ダリラ・オヴァネソワ氏

ダリラ・オヴァネソワ(当時は学校生徒) 

  スターリンが死んだ日、私たちは学校に集合させられ、廊下に整列して、葬送の音楽を演奏しました。ピオネールとコムソモールが整列して直立不動で敬礼していたのを覚えています。

 みんな泣いていました―生徒も先生も。私は泣いてはいませんでしたが、茫然自失の状態でした。授業はぜんぶ休講になり、全員帰宅しました。

 ところが、帰宅してみると、家では、何というか、喜びをかみ殺しているような感じでした。私の気のせいかもしれませんが、ママはなんか嬉しいようで、目は輝き、動作も軽やかで、ある種の解放感のようなものが見てとれました。私の叔父にあたる作家のユーリー・ドムブロフスキーは、粛清の対象になり、当時強制収容所にいたのです。

 

 アレクサンドラ・グリゴリエワ(当時は教育大学学生)

  

アレクサンドラ・グリゴリエワ氏(左)
 

 私は、ザバイカル地方バレイ市の教育大学の4年生でした。そのときはちょうど授業中で、スターリンの言葉を大量に暗記させられていました。授業はすごく厳しかったですね。突然、ドアがノックされ、先生は廊下に出ました。戻ってくると―すっかり取り乱して、椅子にくずれるように座ると、両手で顔を覆い、泣き出しました。しばらくして顔を上げると「ヨシフ・ヴィッサリオーノヴィチ・スターリンが亡くなりました」と小声で言いました。

 私たちはみんな泣きました。私たちのクラスはほとんど女性ばかりで男性は3人しかいなかったのですが、みんな泣きました。

 私は二人の友人(女性)と、或るおじいさんのところに間借りしていました。彼は昔からの共産主義者で、生涯金鉱で働いてきたのですが、私たちが帰宅してみると、家の前のベンチに座って泣いていました。「ああ、コムソモールたち、どうだい?これからどうやって生きていけばいいんだ?我々の父親が死んでしまった」。私たちは本当に、スターリンなしでどうやって生きていけばいいかわかりませんでした。

 

 ヴィクトル・エルコヴィチ(当時学校生徒)


ヴィクトル・エルコヴィチ氏
 

 53年当時、私はイルクーツク州のニジネウジンスク近郊の工場街に住んでいて、学校の8年生でした。文字通り町全体が泣いていました。いや、泣いていたなんてもんじゃなく、手放しで、心から号泣していました。まるで、人生が止まってしまったかのようでした。私たちの年齢のコムソモールにとっては、これは大祖国戦争以上の悲劇だったのです。

 ところが私は、泣かなければいけないことはわかっていたのですが、なぜか涙が出てきませんでした。私はすっかり困ってしまいましたが、それは別に人目があるからというわけではなく、こんなときに泣けなかったからです。それは異常なことのように思われたので、唾液を目のまわりに塗りたくり、泣いているふりをしました。

 

 フェリックス・クワシャ(当時大学生)


フェリックス・クワシャ氏


  当時私は大学生2年生で、工作機械製造を学んでいて、モスクワ近郊のシェレメチェヴォ近くの寮に住んでいました。部屋は大きくて、20人ほどが共同生活をする、兵営のような感じでしたね。

 夕方、放課後に、ラジオでスターリンの死が告げられました。みんな、ただもう大ショックで、この世の終わりが来たように泣き叫んでいましたが、私は泣かなかったし、髪の毛を引きむしりもしませんでした。

 翌日、私たちは、同盟会館の円柱の間に、告別に連れて行かれました。500人ほどが整列していました。

 会館を出てからも、お前たちは監視されているから、走り回ったりしないように、と注意されました。2時間ほど一箇所で足踏みしていましたが、その後、人並みが動き出しました。初めはかなり自由に動けました。もっとも、立ち止まったり、呼び交わしたりしながら、ゆっくり進んでいったのですが。

 夕方近く、我々は、トルビナヤ通りに押し込まれました。そこはすごい人並みで、数千人いたでしょう。そのときまでには、うちの学生はもう一人も残っていませんでした。うまく逃げた人もいるでしょうが、あとは、人込みにまぎれてしまったのでしょう。知人が5、6人いたかもしれません。でも、その後はもうすごい人込みで、みんな目が血走っていました。並木道に沿ってトラックが立ち並んでおり、その後ろに兵士が立っていました。恐ろしいことが起きたのはこの後です…。

 大群衆は、一晩中動けず、立ちすくんでいました。その間に、見知らぬ人と知り合ったりしましたが、その人もしばらくすると消えてしまいました。トラックの下に這いこもうとした人もいましたが、兵隊たちにそこからつまみ出されました。逆に車台に放り込まれた者もいましたね。そういう人はもうそこから出てこなかったようです。

 一番恐ろしいのは、トラックにぎゅうぎゅう押し付けられることでした。一晩中飲まず食わずで、立ち通しで、トイレにも行けませんでした。中庭はすべて通り抜けられないように閉鎖され、アパートの入口も閉ざされていました。

 悲劇が起きた、あのトルブナヤ広場まであと300メートルほどというところで、16、17歳くらいの少年たちが現れました。彼らは、どうやってここから離れるか、もしかして屋根の上を移動するか?などと話し合っていました。

 結局、この少年たちのおかげで私は助かったのです。彼らは、ある建物の入口がうまく閉じていないのを見つけ、そこに私たちは入り込みました。そこから中庭を通って、屋根によじ登りましたが、私は途中で彼らを見失いました。それから私は、屋根から飛び降りて、隣の通りへ―ツヴェトノイ・ブルヴァールですが―出ることができました。精も根も尽き果てていましたが、生きて出られたのです。