ロシア史上最も傑出した5人の女性学者

ダヴィド・ソロモノヴィチ撮影/Sputnik, Getty Images,Vasiliy Fedoseyev, Images from the History of Medicine (NLM), archive
 ソ連初の抗生物質から初の蛍光灯まで、これらの女性はロシア科学史に大きな功績を残した。

 現在では女性学者は世界中におり、特に驚くことではない。今年の3月19日、数学分野の業績を表彰するアーベル賞を初めて女性が受賞した

 しかし常にそうだったわけではない。ロシアで女性の高等教育コースが現れ始めたのはヨーロッパとほぼ同時で、1870年代のことだった。だが女性が高等教育を受ける権利が男性と完全に等しくなったのは1920年代のことだ。しかし、かつての極めて困難な時代にあっても、学問を志した女性たちは活路を見出していた。

1.ジナイダ・エルモリエワ、「ミセス・ペニシリン」

 ロシア微生物学の創始者の一人であるジナイダ・エルモリエワ(1898-1974)が自身の職業を選んだのは偶然ではなかった。彼女が1915年に医者になることを決めたのは、お気に入りの作曲家、ピョートル・チャイコフスキーがコレラで亡くなったことを知ったからだった。ジナイダはこの病気との戦いに身を捧げることを決め、ドン国立大学に入学、1921年に卒業した。

 1922年のコレラの大流行のさい、ジナイダは自身に対する実験で命を落としかけた。感染経路を調べるため、コレラに類似するビブリオ属細菌を含んだ水を意図的に飲んだのだ。この果敢な実験によって、現代の水の塩素消毒の基準が確立した。

 1939年、彼女はアフガニスタンに出張し、そこでコレラの迅速診断方法を考案し、コレラだけでなく腸チフスにも効果的な薬剤を開発した。第二次世界大戦中、ジナイダはスターリングラード近郊で発生したコレラの流行の拡大を防ぐことができた。まずドイツ軍兵士の間で感染が始まり、市民やソ連軍兵士の命も脅かされたが、エルモリエワのおかげでファージ生産事業が展開し、集団予防接種や井戸の塩素消毒が実施された。これにより流行は収束した。

 ソビエトの細菌学者の最大の功績の一つが、ペニシリンに相当するソ連初の抗生物質「クルストジン」を開発したことだ。ペニシリンの開発者の一人であるハワード・フローリーは、1944年に使節としてソ連に赴き、2つの薬品を比較した。すると、クルストジンはペニシリンに劣らないどころか、より効果的であることが分かった。感銘を受けたフローリーは、エルモリエワを「ミセス・ペニシリン」と呼んだ。

2.ソフィア・コワレフスカヤ、初の女性数学者

 世界初の女性教授でロシア初の女性数学者であるソフィア・コワレフスカヤ(1850-1891)は、幼少期に数学を知った。噂では、彼女の部屋の壁紙が足りなかったため、代わりにミハイル・オストログラツキーの微積分法に関する数学講義が貼り付けられていたという。初めは家庭教師に教わったが、高等教育を受けるには国外に出る必要があった。当時女性の大学入学は禁じられていたため、ソフィアは偽装結婚で若き学者である夫とドイツへ出国した。彼女は初めハイデルベルク大学で、後にベルリン大学で授業を聴講し、1874年にゲッティンゲン大学で博士号を取得した。

 夫が1883年に自殺した後、ソフィアは娘とともにベルリンに移住し、ストックホルム大学数学講座で教授職を得てスウェーデン語で授業と論文執筆活動を行った。1888年、初の女性教授は「固定点をめぐる剛体の回転について」という論文を完成させた。彼女はこの論文でこの課題の第三の古典的解決法を示し、レオンハルト・オイラーとジョゼフ=ルイ・ラグランジュが始めた仕事を前進させた。

3.リーナ・シュテルン、ソ連初の科学アカデミー女性会員

 子だくさんのユダヤ人家庭の長女であったリーナ・シュテルン(1878-1968)は、ロシア帝国クルリャンツキー県(現ラトビア)で生まれた。彼女は母校ジュネーブ大学で初の女性教授となり、1925年に第二モスクワ国立大学(1930年以降は第二モスクワ医科大学)の生理学講座への招待状を得てソ連に戻ると、初の科学アカデミー女性会員となった。

 極めて精力的で能率的な女性であったリーナは、1925年から1949年まで生理学講座の主任であったと同時に、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国教育人民委員部研究所(後のソ連科学アカデミー)の所長も務めた。1932年、シュテルンはドイツ自然科学アカデミーの会員に選ばれ、1939年からはソ連科学アカデミーの会員となった。彼女の主な専門領域は、人間と動物の体内の生理学的プロセスの化学的・物理化学的基盤の研究だった。血液と中枢神経系との間の物質交換を選択的に制御し、生物体の防御機能を実現する機構である「血液脳関門」の名付け親はリーナである。

 彼女の指導の下、心室の細動を電気パルスで止める方法が開発され、心臓の最初の電気療法器具が生み出された。彼女が開発した外傷性ショックの治療法は、第二次世界大戦中に軍事病院で広く活用された。1947年、シュテルンは頭蓋から脳脊髄液に直接ストレプトマイシンを注入するという結核性髄膜炎の効果的な治療法を提案した。

 科学は一度シュテルンの命を救った。1949年、彼女はユダヤ人反ファシスト委員会の件で逮捕されたが、彼女一人だけが銃殺刑を免れた。法廷で彼女は、まだ科学のためにすべてのことを成し遂げられていないゆえ死にたくないと言ったのだ。とはいえ、それから1953年までの数年間は、シュテルンは流刑地のカザフスタンで過ごすこととなった。その後モスクワに戻り、科学アカデミー理論実験生物物理学研究所生理学部の学部長を務めた。

4.オリガ・ラドィジェンスカヤ、数学者

 20世紀の傑出した数学者オリガ・ラドィジェンスカヤ(1922-2004)は、コストロマ州の小さな街で生まれた。父親のアレクサンドル・イワノーヴィチは学校の数学教師で、帝国軍の元将校でもあった。彼は早くから娘に数学に対する愛を植え付けたが(彼女は10歳の時点で高等数学の問題を難なく解くことができた)、学問の道は楽ではなかった。1937年、父親は弾圧を受けて間もなく銃殺され、「人民の敵の娘」という烙印のせいでオリガはレニングラード大学数学力学科に入学できなかった。

 1943年になってようやく彼女はモスクワ大学の力学数学科に入学できた。1947年にはレニングラード大学大学院に進学して物理数学博士号を取得、物理学科の教授となった。厳格さ、知的好奇心の強さ、実直さで知られたラドィジェンスカヤは、偏微分における微分方程式理論の幅広い問題をカバーする200以上の著作を発表した。例えば、流体力学に関する彼女の論文は、船や魚雷、血管内の血液、ポンプ内の液体の動きに関する研究開発に活用されている。

 父親と同様、オリガは多面的な人物であり、科学だけでなく絵画、詩、音楽も愛した。彼女の友人には文化人も多かった。詩人のアンナ・アフマートワとも親交があり、弾圧期にこの詩人が自分の詩を託した一部の人々の中にオリガもいた。またオリガは、アレクサンドル・ソルジェニーツィンが『収容所群島』を著すに当たって使用した体験談や手紙、回想録、修正稿の提供者である257人の「群島の証人」の一人だった。

5.ファチマ・ブタエワ、蛍光灯の発明者

 識字率の低いオセチアの小さな街で生まれたファチマ・ブタエワ(1907-1992)は、1932年に第二モスクワ国立大学を卒業し、すぐにクイビシェフで数学講師として学者の道を歩み始めた。ファチマは同年にモスクワに戻り、中等技術学校で理論力学の講師として2年間勤めた。1934年、全ソ電気工学大学の光源研究室に移り、初めは技師として、後に講座主任として働いた。

 努力の結果、ファチマはソ連初の蛍光灯の共同発明者として有名になった。この功績で1951年には第二級スターリン賞を受賞した。同年ブタエワは同僚らとともに光を強める新原理の発明に対する申請書を提出した。この原理は現在あらゆるレーザーに応用されている。この発明は時代を先取りしており、8年後にようやく世に認知され、ソ連国家学術発見目録に登録された。

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