アニメ『キャプテン翼』から、イングランド・プレミアリーグでプレーする日本人にいたるまで、日本のサッカーは多彩な顔をもち、急速に成長している。それにともない、ヨーロッパのリーグでプレーする日本人選手の数も増えている。ロシアのFCに所属したことのある7人の日本人選手について、ここで思い出してみよう。そのうちの 1 人はレジェンドになっている。まずはその彼から始めよう。
本田圭佑
本田圭佑は、ロシアの生活になかなかなじめず、ACミランへの移籍の際はスキャンダルになったが、それでも、ロシアではレジェンドであり続けている。
2010年1月、CSKAモスクワは、オランダのVVVフェンロから、日本人のミッドフィールダー、本田圭佑を4年契約で獲得した。本田はCSKAで4年間プレーし、127試合に出場して、28ゴール29アシストを記録し、彼のプロキャリアの中でも一つのピークとなった。
CSKA時代の前後の数字と比べても、この時期は際立っている。サッカーのフィールドでは、本田は主にその見事なロングシュート、ミドルシュートで記憶されている。しかし、フィールドの外では、ロシア暮らしに慣れるのにかなり苦労したようだ。
たとえば、本田は、特定の時間に呼ばれた配管工がなぜ遅刻することがあるのか、理解できなかった。クラブの人たちは、それは、まあ、ロシアでは普通のことなので、ただ待たなければならないのだと説明しようとした。何というナンセンス!また、あるとき本田は、お店で商品を売ってもらえなかった。理由は、紙幣の額面が大きすぎて、店員にお釣りがなかったから。しかも、概してレジ係は不愛想で笑顔がない。CSKAの元広報ミハイル・サナゼによると、本田は、ロシア社会の在り方はおかしいとこぼしたという。
しかし、本田にチーム内で問題があったとは言えない。彼はただ独立独歩だった。当時のCSKAのキャプテンでロシア代表のディフェンダー、セルゲイ・イグナシェヴィチは、次のように語ったことがある。「本田にとってはサッカー選手としてのキャリアが大事だ。彼は、チーム内の人間関係など気にしておらず、個人的な利益の方が重要」
確かにそれは理解できる。南アフリカでのW杯の後、彼はスターとしてCSKAに戻った。4試合、最長出場時間で、2ゴール1アシスト。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦でPK戦の末に惜敗した(彼自身は、4人目のキッカーとして成功している)。
本田はファンからとても愛されていた。彼はロシアで素晴らしいサッカーを見せてくれた。常に極めてプロフェッショナルに振る舞い、時には行き過ぎと思えるほどだった。本田個人には、いかなるスキャンダルもなかった。物静かで、非常に勤勉で、サッカーに集中し切っていた。プロスポーツ誌のジャーナリスト、ユーリー・ドゥージのインタビューで、サッカーやCSKAへの移籍についてではなく、「ロシア人たちの身体に、日本語の文字のナンセンスなタトゥーがあるのを見ましたか?」などと質問され、不可解に思ったほどだ。
日本のファンにとっても、本田はアイドルに近い存在だった。当時、彼はUEFAチャンピオンズリーグで定期的にプレーしていた数少ない選手の一人だ(本田はチャンピオンズリーグで11試合に出場し、3ゴール3アシストを記録)。モスクワの土産物店では、マグカップ、マグネット、キーホルダー、Tシャツ、そしてもちろんCSKAのユニフォームなど、この日本選手をイメージした商品の販売が始まった。
日本人観光客はこれらを買い漁った。また、日本のジャーナリストや撮影クルーは常にモスクワにいたが、本田は彼らに注意を向けないことが多かった。
本田はCSKAを離れるのに苦労した。エフゲニー・ギネル・クラブ会長と対立したのだ。二人とも相手に不信と不満を抱いたようだ。経緯はこうである。本田側は、「契約延長の可能性は排除しない」としていたが、契約終了の半年前に、ミランに移籍させてほしいと申し出た(*契約期間が残り少なくなるにつれて、移籍金も少なくなり、契約が切れれば、当然、契約金は発生しない。一方、契約を延長すれば、移籍金は高くなる)。ギネル会長は拒否した。
結局、2013年12月11日に、本田のCSKA退団とミラン移籍が発表され、彼は、14年1月に契約満了して移籍金無しで、ACミランに移籍した。したがって、CSKA側の懐には、移籍金は1銭も入らなかった。当時、サッカー情報サイト「Transfermarkt」(トランスファーマルクト)は、この日本人の「市場価値」を2000万ユーロと見積もっていた。
しかし、ミランでは本田は大成功とはいかなかった。日本人の彼にとって、ロシア暮らしがどんなに困難でも、彼のキャリアのピークはCSKA時代だったろう。「ロシアでは忍耐力を学んだ」と彼は、ミラン移籍前の最後のインタビューの一つで語った。
橋本拳人
橋本拳人は、コロナウイルスのパンデミックのさなかに、ロシア・プレミアリーグのFCロストフにやって来た。釣りが好きで、翻訳アプリでコミュニケーションしていた。
「さてと、ロストフか?行こうじゃないか」。これが橋本のロシア語での第一声だ。ドリフトする黄色いスバルと(*ロストフのホームカラーは黄色だ)、映画『ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT』のサウンドトラックもはっきり出てくる。FCロストフはユーチューブで、新人をこのように紹介した。
橋本は、間もなく27歳になろうとする頃に、古巣のFC東京を去った。このクラブで育ち頭角を現した彼は、チームメートたちに胴上げされて大いにリスペクトされつつ送り出された。サッカーにおいては最高の旅立ちだ。
2020年になってもロシアでは依然、日本人のサッカー選手が珍しかったことを示すエピソードがある。ロストフのSMM(ソーシャルメディアマーケティング)は、選手たちを混同して、最初は橋本ではなく、ドイツ・ヴェルダーの大迫勇也を投稿した。すぐに修正されたものの、インターネット上では気付かれないわけにはいかなかった。幸い、橋本は、こんなことで腹を立てる気などなかった。
橋本は、本田圭佑とはまったく別のタイプだった。実際のところ、彼は、新世代の日本代表選手なのかもしれない。この世代では、多くの日本人がもうヨーロッパでプレーしている。しかし、本田はその最初の一人だった。あるいは、橋本はもっとオープンな人間なのかもしれない。彼は、チームメートに、釣りができる場所を教えてほしいと頼み、インタビューも拒まず、日常の問題について不平を言うこともなかった。
「21 世紀の生活はとてもシンプルだ。アプリをダウンロードし、いくつかのボタンを押し、5 分待つだけで、すぐに食べ物が目の前に届く。衣服や他の商品でも同じ」。こう橋本は語った。彼はまた、自身のSNSに面白い動画を投稿している。アルセナル・トゥーラとの試合の日に、自分がエレベーターに20分間閉じ込められた様子を写したものだ。
この日本人には素晴らしいユーモアのセンスがあった。車の右側通行は問題ではないかとの質問に、橋本は笑いながら、「車がないから問題ない」と答えた。橋本はすぐにロシア語を学び始めた。チームメートもファンも、誰もがこのオープンな男が好きになった。そして、ロストフは日本語のソーシャルネットワークまで立ち上げた。
人柄に加えて、橋本は、サッカーの試合でもロストフのファンの心をつかんだ。ミッドフィールダーとして、新天地のリーグでの最初のシーズンに、19試合で6ゴール1アシストを記録。
しかし、2022年2月24日以降、橋本も他の多くの外国人サッカー選手と同様にロシアを出国した。国際サッカー連盟(FIFA)は、ロシアのクラブとの契約を一方的に停止することを認めた。
橋本は、あの伝説のスペイン人選手アンドレス・イニエスタがプレーしていたヴィッセル神戸に入り、3ヶ月間プレー。その後は、スペイン2部SDウエスカへ入団した。
「もし僕がメニューを作れるなら、毎日蕎麦がゆを食べるのに!」
さまざまな時期に、他の日本人サッカー選手たちも、ロシアのプレミアリーグにやって来た。2010年に松井大輔がトム・トムスクに、巻誠一郎がアムカル・ペルミに、2014年に赤星貴文がウファに、そして2021年に斉藤未月がルビン・カザンに入った。
しかし、これら 4 人の選手は合計で 20 試合プレーしたのみ。巻が9試合、松井が7試合、斉藤と赤星が各2試合だ。ただし、もう一人、西村拓真を挙げることができるだろう。彼は、2018年にやはりCSKAの一員としてフルシーズンを過ごした。
西村は、「蕎麦がゆ」(グレーチカ)が大好物だったことで、クラブ関係者を驚かせた。「日本には、蕎麦の実のお粥はない。蕎麦を細長い麺にしたものはあるが。ロシアで、蕎麦がゆが大好きになったけれど、残念ながら、ここの合宿所では2日に1回しか出されない。もし僕がメニューを作るとしたら、毎日蕎麦を食べるだろう!」。この日本人はこう言った。彼は、モスクワ生活に何の問題もなく適応した。本田とは異なり、西村はいくつかの日本食レストランを賞賛しさえした!
しかし西村は、本田のようなCSKAのレジェンドにはなれなかった。彼自身も、自分の移籍が当初日本のファンに衝撃だったことを認めている。彼は、日本の中堅どころのクラブから、チャンピオンズリーグに出場していたロシアの一流チームに入った。
この日本人のフォワードは、1年半で計17試合に出場し、2ゴールを記録。その後ポルトガルのポルティモネンセに期限付き移籍。それから、古巣のベガルタ仙台に戻った。
今後何年間かは、欧州の大会から孤立したロシアのクラブは、日本のサッカー選手にとっては魅力を失うだろう。しかし、それでもロシアのプレミアリーグでプレーできた、日本代表チームの選手たちが、ロシアで過ごした時を懐かしく思い出しているのは、我々には嬉しいことだ。