『20世紀のプロ野球名選手100人』 写真提供:wikipedia.org
スタルヒンは、1916年3月16日、今は「ロシア製戦車の都」として知られるウラル地方の町ニジニ・タギルの木材商の家庭に生まれた。一家は、1919年、ボリシェヴィキの迫害を逃れて極東へ移る。それは、貴族と異なり、ヨーロッパではなくアジア諸国に救いを求めた、さほど富裕ではない多くのロシア人が辿るおなじみのコースであった。
スタルヒン一家は、満洲で商業を営もうとしたが、中国との複雑な関係のためにその地を後にし、1929年、北海道の旭川に移り住んだ。10歳のヴィクトルは、地元の学校へ通いはじめると、早くも5年後には野球のピッチャーになることを決意する。
学校をやめなくてはならなかったが、ヴィクトルは運がよかった。当時、日本の野球は黎明期を迎えており、1936年、日本職業野球連盟が設立され、1939年、スタルヒンは通算100勝を達成する。
戦前の食糧難により体力に衰えの見える日本人と比べ、スタルヒンのパワーとガッツはとくに際立っていた。日本のユニフォームを着たその青い目のロシア人は、身長が192センチメートル、体重がおよそ100キログラムであった。
あるアメリカの強豪チームにスカウトされそうになっても、スタルヒンは、自分の第二の故国を裏切りはしなかった。1940年には野球をオリンピック競技に加えることが予定され、スタルヒンには大きな期待がかけられていたにもかかわらず、日本におけるスタルヒンは複雑な境遇に立たされていた。戦争のためにその計画は見送られ、このロシアの野球選手は須田博の名でマウンドに登ることになり、野球の試合が完全に停止される1944年までそうした状態が続いた。敵性人種として収容所へ送られたことさえあり、そこで肺を患ってしまう。
後にアメリカ軍が日本へ進駐すると、スタルヒンは、今度はスタルフィンとアメリカ風に名を改めた。収容所で健康を損ねたにもかかわらず、1949年、早くも通算200勝をマークする。
1955年、スタルヒンは、日本史上初の300勝投手として現役を引退する。その人気は絶大で、それが免罪符になることもあった。
1942年から東京に住んでいたロシア人医師エウゲニー・アクショーノフ氏は、終戦直後、日本国籍を持たないこの医師に警戒心を抱いた警察官が氏の身分証明書をチェックしようとしたときのことをこう回想する。「あなたが思想穏健であることを保証する者は日本にいるのかと訊くので、肩をすくめて『そうですね、野球選手のスタルヒンくらいしかいません』と答えると、すぐ放免に…」。
ヴィクトル・スタルヒンは、二度にわたり日本野球連盟の最優秀選手に選ばれ、オールスターチームに選出され、日本野球殿堂入りを果たした。
引退後はラジオの司会や映画俳優の仕事を始めていたが、残念ながら、生前に殿堂入りの栄誉に与ることはなく、1957年、自分の運転する自動車が列車と衝突し、この日本野球史上最高の投手は、帰らぬ人となった。
スタルヒンが登板する試合は白熱して見応えがあり、その活躍は日本の野球を国際レベルへと導いた。日本でスタルヒンの記念像が建てられ球場にその名が冠されているのもうなずける。
近年、野球はロシアにも伝えられた。スタルヒンの名とともに。野球のロシア選抜チームのニコライ・ゲルヴァソフ監督は、こう語る。「スタルヒンについて私たちはあまりよく知りませんが、日本のジャーナリストにはいつもこの人物について訊ねられます」。
同氏によれば、ロシアにはここ15年ほどのあいだにおよそ50の野球チームが現れ、もう何年もスタルヒンを記念する大会が催されており、国内最強チームの一つには「ロシア」と「スタルヒン」を意味する「ルススタル」という名がつけられている。青少年や児童のチームも作られており、子供たちの憧れの的は今のところもっぱらスタルヒンだという。
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