画像:ナタリア・ミハイレンコ
サハロフ博士の国家改造案
私がサハロフ博士と出会ったのは1989年春、第1回人民代議員大会の準備をしていた時である。サハロフ博士は国を国家・官僚的社会主義の袋小路から引きだそうとしていた。当時は誰もが賛成していたが、それをいかに実施すべきかを分かっている者は少なかった。
共産主義者などの保守的なグループは、社会主義システムを「完成」させるために改革する必要があると考えていた。
当時ソ連共産党中央委員会政治局にいたゴルバチョフとヤコヴレフが率いていたグループは、既存の国家体制を改革することは不可能であることを理解し、徹底的な国の刷新を支持していた。
当時反政府的な立場をとっていた政治家のグループは、資本主義に戻ることを提案していた。
サハロフ博士の提案とは、これらとは異なる、新国家への移行であった。自国で経験した社会主義は容認不可能であることが判明したが、世界をとりまく民主主義にも無理があった。そこでサハロフ博士は、資本主義と社会主義の発展の道筋を近づけることを提唱した。各システムの長所を最大限に利用し、明確な欠点を排除していくものである。
例えば、大々的な民営化は社会主義的なシステムに適合しなかったが、かといって資本主義は国有財産の維持を許さないものであり、それなしに国の発展は困難と思われた。
サハロフ博士のアイデアは優れていた。物理学者として、20世紀の科学の主要な成果の一つ、ボーアの原理「相補性」を使用。補完、異なる社会システムの最高の質の組み合わせによってのみ、完全に新しい国家機構を構築することができると考えていた。だがこのアイデアが採用されることはなかった。
マイナスのエネルギーを抽出
1989年の話に戻ろう。サハロフ博士が加わっていた民主主義派議員の小さなグループからは、初の合法的な議会の反対派である地域間議員グループができていた。
民主主義派議員は団結し、選挙に向けた準備を行っていたが、まず何をすべきかについては、意見がわかれていた。決定的な役割を果たしたのはサハロフ博士。野党のメンバーに共通のアイデアやプログラムがないと分かった時、真の政治家として有望かつ予想外の提案を行った。それは自分たちを団結させるプラスのエネルギーを探すのではなく、マイナスのエネルギーを抽出するというもの。我々は皆、ソ連共産党の政権に反対していた。それはすなわち、ソ連共産党の専制政治を定める、ソ連憲法第6条の廃止に焦点を合わせなければならないことを意味する。
民主主義的な動きを決める重要な問題の中に、サハロフ博士はソ連の運命を盛り込んでいた。帝国としてのソ連に存続可能性がないことには誰もが同意していたし、それに替わる国家のあり方を模索せねばならなかった。サハロフ博士は当時、ユーラシア連合のアイデアを提唱し、その憲法の作成にとりかかっていた。しかしながら、人生の終わりを迎え、作業を完了させることができなかった。
ユーラシア連合のアイデアは今、再び優先事項となりながら、その有効性を示している。アメリカ式の世界秩序のモデルは崩壊した。アメリカ式というよりも、自分たちの利益に応じたゲームのルールを全世界に押し付ける、石油グループの力にもとづいたモデルである。このモデルは何らかの新たなものへの対抗を必要とするが、今のところ代替モデルはない。
その代替モデルになり得るのが、サハロフ博士の提唱していたユーラシア連合である。この連合を創設する際には、ソ連の過ちをくり返している欧州連合(EU)の過ちも学ばなくてはならない。社会的変革のプロセスに、当時著しく遅れていた田舎を加えようとしていたソ連のように、ヨーロッパは現在、ハイテクな意思決定システムを維持しながら、社会・経済的変革のプロセスに、発展レベルが著しく遅れている東ヨーロッパを加えようとしている。
サハロフ博士は驚くほど立派な人柄で、他の人に対して極めて献身的であった。人のためなら、自分の幸福をも切り捨てることのできる人だった。その献身は19世紀のロシアの革命的民主主義者、ニコライ・チェルヌイシェフスキーをほうふつとさせる。チェルヌイシェフスキーはその信念によって迫害され、流刑され、強制労働をさせられ、また市民権も剥奪された(都心でさらしものになったうえ、すべての身分上の権利と財産上の権利を剥奪された)。だがそれに屈することは決してなかったのである。
ガヴリイル・ポポフ、元モスクワ市長、モスクワ国際大学学長
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