カプランがレーニン暗殺未遂のかどで銃殺

女性党員ファーニャ・カプラン(1918年) 写真提供:wikipedia.org

女性党員ファーニャ・カプラン(1918年) 写真提供:wikipedia.org

1918年の今日、9月3日に、エスエル党(社会革命党)の女性党員ファーニャ・カプランが、レーニン暗殺未遂のかどで、裁判を経ずに銃殺された。

 エスエル党は、ナロードニキの流れを汲んでおり、地主の土地の所有を望む農民などに支持されていた。十月革命後の普通選挙(憲法制定会議選挙)では、707議席中438議席を占める大勢力で第一党となった。

 しかし同党は、ボリシェヴィキを支持する左派と右派とに分裂し、1917年12月に、左派はボリシェヴィキと連立を組む。

 

ドイツとの講和問題で対立 

 ところが、エスエル左派は翌年、ドイツとの講和問題で、ボリシェヴィキと対立する。レーニンは、広大な領土を割譲し、多額の賠償金を支払う条件を呑んで、1918年3月にブレスト・リトフスク条約に調印したが、左派エスエルはこれに反対し、同年7月に中露ドイツ大使を暗殺して、蜂起する。

 

暗殺未遂事件 

 ボリシェヴィキがこういう厳しい状況にあった1918年8月30日、レーニン暗殺未遂事件が発生する。

 レーニンが、モスクワの工場の集会での演説を終え、自動車に乗りかかったとき、3発の銃声が轟き、うち2発が肩と肺に当たった。レーニンは一応回復したが、健康状態はこの事件を境に優れなくなる。

 

憲法制定会議を解散したときに暗殺を決意 

 現場近くの市電の停留所で、エスエル党(社会革命党)の女性党員ファーニャ・カプラン(1890~1918)が逮捕された。彼女は、ブローニングの拳銃を所持していた。

 彼女は尋問に対して、自分は十月革命には極めて否定的で、レーニンが憲法制定会議を解散したときに、暗殺を決意したと述べた。

 彼女は9月3日に、裁判なしで銃殺刑に処せられた。

 

赤色テロルを布告 

 しかし、彼女が当時失明に近く、かろうじて物の輪郭が分かる程度であったこと、レーニンの身体から摘出された弾丸が、彼女が持っていたブローニングのそれと一致しなかったことなどを根拠に、真犯人は別にいるという意見もある。

 奇しくもというべきか、この暗殺未遂と同じ8月30日、ペトログラードのチェーカー(秘密警察)議長のモイセイ・ウリツキーも暗殺されている。

 ボリシェヴィキは、これをきっかけに、9月5日、「赤色テロル」の実施を布告し、反対派への大規模な弾圧、処刑を開始する。