ロシア憲法成立20周年

2013年12月12日、ロシアは憲法成立20周年を迎えた=タス通信撮影

2013年12月12日、ロシアは憲法成立20周年を迎えた=タス通信撮影

2013年12月12日、ロシアは憲法成立20周年を迎えた。憲法を起草した専門家グループの代表を務めたアンドレイ・ゴリツブラト氏が、その当時を回想する。

 ソビエト連邦の崩壊後、それまでソビエト領であった各地で、全く新しい政治状況が発生した。ロシアは独立を宣言したため、新たな統治機構を必要とした。 [初代大統領]のボリス・エリツィンは、その当時、依然としてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の最高会議議長であったが、同国の新憲法の草案を起草する委員会の設置を命じた。起草作業は1989年に始まった。

 

連邦崩壊前夜に憲法起草委員会の主席委員になる 

  私が憲法起草委員会に主席委員として加わったのは1990年の夏のことだった。私は当時28歳で、秘書長は私の旧友であるオレグ・ルミャンツェフだった。委員会を構成する専門家の平均年齢は50代だった。

 コンピューターやコピー機といった、通常の作業をするのに必要な基本的なものさえ揃っていなかった。当然だが、その当時は携帯電話も電子メールも存在しな かった。ファックス機が1台だけあり、それは全委員会で共用しなければならなかったが、それさえも当初からあったわけではなかった。こうした足かせがあったにもかかわらず、雰囲気は活気に満ちており、私たち全員が、この国に起きている変化に対して興奮を感じていた。皆がかなりの熱意を持って作業に取り組ん だ。

 私はオンボロのラーダを運転していたが、それはホワイトハウス(モスクワ中心部にある政府庁舎のこと)のすぐ外に駐車することができた。最新のオフィス機器が初めて配達されたときのことを今でも覚えている。それを閣僚評議会事務局に属する巨大なジムに設置したのだが、これは憲法草案の多数の修正案を処理するのに使用したコンピューターネットワークの中枢となった。

 

焦点は大統領と議会の権限の規定 

  憲法起草作業はきわめてまれな、忘れがたい体験であった。オレグが集結させた強靱な知性の持ち主の力を合わせれば、どんな問題でも解決できた。休む暇はなかった。私たちの間で行われた議論や話し合いは、どんどん知的対決、そして決闘のように展開していった。一度、郊外にあるソビエト閣僚評議会のコテージで 作業を行い、1ヶ月ほどを過ごしたことがある。おそらくこの時が、私たちにとって最も生産的な時期だった。

 私たちにとって最重要の課題は、大統領、議会と行政の間における権力の均衡について規定する章であった。委員会メンバーの中には、首相だけでなく、閣僚も、議会による指名の承認を受けなければならない、と主張する者がいた。他のメンバーは、組閣プロセスから議会の関与を排除する条文を提案した。彼らは首相の職を完全に廃止し、究極的な行政権を大統領に付与することを提案した。

  私は、1991年のクーデター[の試み]で、モスクワの通りに戦車が登場したことを覚えている。私は休暇で滞在先のクリミアに家族をおいたまま、直ちにモスクワに向かった。その情勢は不愉快ではあったが、怖くはなかった。1993年の[憲法危機発生時に]それが起きていたらもっと怖かっただろうが、 1991年には何もかもが迅速に終結し、悪いことはすべて終わり、将来待ちうけているのは良いことだけだと誰もが思っていた。

 

最高会議ビル砲撃事件で消滅 

  1993年9月21日、私はホワイトハウスから自宅に帰宅した。家族との夕食中にテレビを観ていると、ニュースの放送が中断され、大統領が議会の解散を発表した。1時間後に急使が来て、全員が作業に呼び戻されたという通知を受けた。そこでオフィスに戻ったが、それは午後11時頃のことだったと思う。委員会 のメンバー全員が一堂に会していた。オレグ・ルミャンツェフは、大統領令に対する議会の決議案を起草しなければならないと私たち全員に言った。そこで作業 に取りかかった。ルミャンツェフは、議会の審議に出席するために何度も出かけていき、そのたびに私たちの草案に対する新修正案の文面を持ち帰ってきた。午 前5時になると私たちは疲弊しきっており、人々は仮眠を取るために自分のオフィスに入っていった。私は一旦帰宅したのだが、次の日に出勤すると、ホワイトハウスはすでに封鎖されており、誰も立ち入ることができなかった。

 状況は急激に悪化した。私たちはやる気を喪失し、この状況は長続きするだけでなく、さらに悪化することが明確になっていた。それでも私は何度か出勤することができた。建物内の電気供給、通信と下水道に支障が生じているという徴候が既に見受けられた。

 [危機の]最初の数日間のある日、私がオフィスから薄暗い 廊下に出ると、そこでは武装した人たちが行き来していた。私はドアから「憲法起草委員会」という表札をドアから取り外した。万事に収拾がついたら元に戻せばいい、そうでなかったら記念にとっておけばいいと思ったのだ。実際には後者が現実となった。私はあの表札をとっておいたことを誇りに思っている。後にそれは、所有するのに最もふさわしい人物であるオレグに贈った。

 その後、私たちの職場は戦車の砲撃を受け、最高会議は中断。そして憲法の修正案は国民投票によって可決され、初の議会が選出された。こうして事は収束したのだった……。

アンドレイ・ゴリツブラト 

 法学準博士(修士と博士の間に相当する学位)、国際法曹協会(IBA)および米国法曹協会(ABA)メンバー。

 19911994年、ロシア最高会議の憲法起草委員会首席委員として、ロシア憲法の草案を起草する専門家グループのリーダーを務める。