自由の解釈で分かれる見解
イーゴリ・デミコーフスキー |
ロシアは90年代初めから文明的で自由主義的な社会を築いてきた。
ロシアはすでに自由社会
ロシアは世界の政治・金融システムに対等のパートナーとして組み込まれた。もはや、文明世界に対立する勢力の中心ではなくなってしまったが。
ロシアでは(金があれば)、国の内外を自由に移動できる。十分に自由な数百の報道機関もある。
国民はインターネットを駆使すれば、あらゆる政治家のうしろめたい情報を大量に集められる。
ロシア国民、外国人は法律の枠内ならどんなビジネスでも始められるし、稼いだ金を自由に使える。
国外に持ち出して、ごく個人的な目的に使用することもできる。どんな文学作品も音楽も入手可能だ。国家権力から独立した映画産業も、独立度のさらに高い演劇界もある。私立の病院、大学、学校も現れた。サービス分野で競争原理が働いていることは明らかだ。
ロシアが自由主義国として、他の旧ソ連・東欧などの国々(例えば、ハンガリー、リトアニア、ルーマニア、ウクライナ、チェコなど)と違いがあるとどうして言えようか。
なるほど、ロシアの汚職はひどい。だが、世界には自由主義でありながら、負けず劣らず汚職にまみれている国がたくさんあるではないか。
なるほど、ロシアでは(反自由主義を掲げる私の同僚を含め)政治犯が収監されている。
しかし、他の自由主義の国だって、反政府活動をやって逮捕、収監されることもあるではないか。
ロシアには問題を抱えるマスコミもあり、無理やり解雇されるジャーナリストもいる。だが、他の自由主義の国にもタブーはある。タブーを破ったために石牢(いしろう)でうめくジャーナリストもいる。
聖書と自動小銃を崇拝する米国は世界の自由主義の総本山であり続けている。
ロシアがやり残していることといえば、国会を(米国流に)民主党と共和党に二分割して、相互の不可侵条約を結んだ上で、政権を交互に譲り合うことくらいだ。しかも、どうやらそういう方向に進んでいるのだ。
だが、私はそうなることを望まない。私はあなたがたの自由主義の下で生きたいとは思わない。
確かに、我々ロシア人には公正な裁判も、身体障害者用の傾斜路も、まともな選挙も警察も社会福祉も医療も欠けている。だが、これらは本当に自由主義の特徴だろうか。
自由主義者は実に荒唐無稽(むけい)な事柄を信じている。
「ロシアが持ちこたえているのは、自由主義者のたゆまぬ努力のおかげだ」という。
実際は、極めて非自由主義的な国家政策で獲得した石油・ガスのおかげだというのに。
自由と自由主義は別物
世界の良いものすべて(自由、チューインガム、酒、良い小説、アイスクリーム、花、ミニスカート等々)は自由主義の所産であり、悪いものは何でも(戦争、牢獄、亡命、愛国的映画、軍靴)反自由主義であると。
自由であることは自由主義と同義ではない。反意語であることさえ珍しくない。こういう哲学的パラドクスは時たま起こる。
「経済的な豊かさ」が自由主義の同義語でないことはなおさらだ。「国家の独立」については言うまでもない。
ザハール・プリレーピン氏、作家
*svpressa.ruより抄訳
排他的な反対派
今日、ロシアで自由主義者であることは極めて不利だ。テレビの前で何時間も過ごす一般のロシア人にとって、自由主義者が「ならず者」であることは明らかで、要するに同性愛者で西側のエージェントだと思われているようだ。
嫌われる自由主義者
自由主義者の立場をさらに苦しくしているのは、彼らが国民の利益を引き合いに出せないことだ。
国民が専制的な条件の下で生きている場合、いかに生き延びるかが主な関心事となる。国民は自分を養ってくれている権力を怒らせまいと思う。
自由主義とは思想だ。その内容は、人間は強制抜きに向上することが可能であり、自由への志向は生得のものだ、ということだ。こう私が発言すると、不信の目で見られる。自由な人間は自らを養うことができると私が言えば、憎々しげににらまれる。
「ふん、お前の言う自由は知ってる。『ゴルバチョフの自由』だ。それで国をバラバラにして盗みまくったんだ。もうご免だ」
「自由」とは大半のロシア人にとって、犯罪、解体、混乱などを意味する。
一方、「秩序」は国家の偉大さのために権力に従い、個人的自由を制限することである。
米歴史学者リチャード・パイプスが指摘した通り、ロシアではいつでも「自由」と「秩序」のうち、後者を選んできた。ロシアでは自由主義とは何かを知りもしないのに、自由主義を憎悪している。
ソ連社会には自由主義的な思想が胚胎していた。それが検閲廃止と民営企業設立を求め、結局、ソ連を解体させたということかもしれない。ところが、現在のロシア人は大体が無知で、神話を事実としてうのみにする。
意図的に敵を作り出す
思想性の強い人は一般の人々の恐怖感を救済する鋳型にうまく流し込むことができる。普通、これは「敵」の撃滅と結びついている。
敵とは外国人であり異教徒であり、あるいは単に肌合いの違う連中であり、生活スタイルの異なる人々、すなわち「自由主義者」だ。
「あいつらこそは諸悪の根源だ。捕まえろ」というわけで。
こういう思想的に大まじめな一人が、才能ある作家ザハール・プリレーピンだ(彼の才能は多くの点で誠実さから来ている)。
彼は活動禁止された「国家ボリシェビキ党」に入っていたことがあり、刑務所も警察の横暴も身にしみている。散々痛い目に遭った彼は賛歌を歌い始めた。
成り行き任せで流れていく人たちへの賛歌を。単に多数派であるがゆえに正しい人たち、同じロシア人であり、祖父たちがここに住んでいたがゆえに正しい人たちへの賛歌を。
彼の小説は現代のロシアの「ゴプニク(役立たずの人間)」への賛歌を奏でている。
教育、文化の重みにうちひしがれない、若き動物たちが持つ魅力。その賛嘆の念は時としてインテリたちの間でさえ見られる。
だが、くわを振るう汗まみれの農夫を見て感じる美的満足と、この農夫を世界の中心に置き、彼のようでない者はみんな敵だと宣言することとは全然違う。似たようなことが、カンボジアのポル・ポト政権下でもあったことを思い出す。
ドミトリー・グビン氏、評論家
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