なぜロシアの不良は「ゴプニク」と呼ばれたのか?

ロシア語
ユリア・ハキモワ
 調べたところ、これは略語であり、1917年のロシア革命とも多少関係していることが分かった。

 「ハイテクが登場する前でさえ、僕はもう携帯電話で何回か支払っていたよ」。インターネット上で、あるロシア人は冗談を飛ばした。1990 年代から 2000 年代初頭に青年時代を過ごした人なら、このジョークが分かるだろう。

 当時、「ゴプニク」は善良なる市民を恐怖させ、暴力で脅しながら、暗い街角で、当時珍しかった携帯電話その他の貴重品や現金を奪ったりした。ロシア語では、これらの恐喝、攻撃は「ゴプ・ストップ」と呼ばれる。 

「ゴプ」と「ゴプニク」の語源は?

 19世紀の辞書編纂者・民話収集者のウラジーミル・ダーリによる有名な『大ロシア語詳解辞典』(初版は1863~1866年に刊行され、20万語以上を収録)を見てみよう。「ゴプ (гоп) 」は「飛躍、跳躍、または打撃、攻撃」を意味するとある。

 一方、ダーリは、1850年代頃に比較的小さな、しかしユニークな辞書を編纂した。泥棒の用いる俗語、専門用語を集めた辞書『サンクトペテルブルクの詐欺師の言葉:いわゆる「音楽」または俗語』だ。これによれば、「ゴパチ (гопать)」という単語は、「路上で夜を過ごす」を意味する。

 「ゴプ」と「ゴプニク」の語源については、もっと流布した説があるが、それと上の意味は矛盾しない。その説によると、「サンクトペテルブルク国立監督協会」(Государственное общество призора в Санкт-Петербурге)の略語「ゴプ (ГОП) 」が語源だという。19世紀末には、この施設は、かつてファッショナブルだった「ズナメンスカヤ・ホテル」(現代のオクチャブリスカヤ・ホテル)の建物の一つにあった。これは、モスクワ駅の向かいで、市の中心部に位置していた。貧家の児童や不良少年が送られる孤児院だった。

 1917 年のロシア革命後、建物は国有化されたが、その住居としての機能も、名称の略語も変わらなかった。名称が、「国家プロレタリアート寮」(Государственное общежитие пролетариата)と変わっただけだ。

 しかし、1920 年代には、その主な住民は労働者ではなく、ホームレスの子供たちだった。ロシアの内戦、伝染病、そして数年間の大飢饉により、浮浪児が多数生まれたからだ。

 そして、「ゴプ (ГОП)」に住む者たちは、自分たちは「ゴプニク (ГОПник)」(ゴプの住人)だと言うようになる。彼らは、生産活動には参加せず、スリ、窃盗、フーリガン、強盗をなりわいとし、この住居があったリゴフカ地区は、相変わらず悪名高かった。

駅の広場から郊外へ

 当時、リゴフカ地区は、レニングラード(現サンクトペテルブルク)で最も危険な場所とみなされていた。この地区は、全国を震撼させた犯罪の現場として、犯罪日誌にしばしば登場した。犯罪のなかには、集団レイプ、警官への残忍な報復なども含まれていた。

 リゴフカ地区の犯罪の根絶に成功したのは、パウリナ・オヌショノクだ。彼女は、ソ連初の女性警察署長で、レニングラード市警察署長を務めた。1935年に彼女の発案により、警察の児童室が設立されたと考えられている。

 児童室では、不良少年の教育に関する活動が行われた。時とともに、ゴプニクたちは市中心部から郊外に「移動」した。そして今では、幸いなことに、彼らは、路上ではなく、ジョーク、文学、映画のなかにしばしば登場する。