ソ連では、1ヶ月間の休暇を必ず取らなければならなかったって本当?

Panov/Sputnik
 世の中には、1年間、ほぼ休暇も取らずに働きつづけているなんて人も世界のどこかにはいるかもしれない。しかしソ連時代は、そのようなことは想像もできなかった。有給休暇はソ連の最大の成功の一つかもしれない。

 ソ連時代のロシアは、標準の労働時間と有給休暇を法的レベルで定めた最初の国の一つである。ソ連が崩壊するまでの数十年間、その日数は変化したが、戦後、休暇の日数は1ヶ月、あるいはそれ以上となった。

ロシアに休暇ができたのはいつか?

クリミアのサナトリウムで水治療を受けている客、1950年

 今では想像もつかないが、1917年まで、人々は職場で休暇も与えられず働いていた。もちろん、上層部と合意の上で、休みを取ることは可能であったが、その間の給与は支払われなかった。労働時間は8時間ではなく10時間で、休日は日曜のみであった。しかし、革命後すぐに有給休暇という概念がすべての労働者の間で生まれた。

 ソ連時代、休暇が廃止されたことが1度だけある。それは大祖国戦争のときである。しかし、そのときも、有給休暇のためのお金は拠出された。ただそれは労働者の特別な貯蓄となり、その預金に手をつけられることになったのは戦後になってからである。

ソ連市民の休暇は何日あったのか?

ソチのビーチにて、1956年

 1967年まで、有給休暇は12労働日に労働条件によって異なる追加の日数が加えられたものであった。1967年以降になり、基本の休暇は15日まで延長され、それに追加の日数が加えられた。そこで最大日数は36日(しかも36日ではなく、36労働日!)で、その条件は職場や勤労年数、労働の種類によって異なっていた。

 たとえば、学術機関や研究機関では、24日から48日であった。極北ではさらに18日の追加、森林産業で3年以上働いている労働者には6日の追加が与えられた。興味深いことに、ほとんどの場合、休暇は1ヶ月あるいはそれ以上の期間、まとめて取ることができた。休暇の分割に関する規定は法律では定められていない時期もあった。

 モスクワ州の眼科医、ニーナ・グリゴリエワさんは回想する。「わたしはいつも28労働日の休暇を取っていました。いつもまとめてです。何回かに分けて取るという人はいませんでした」。 

 一方、ニジニ・ノヴゴロドのユリヤ・ペトゥシコワさんは「わたしが小さいとき、祖母と祖父は3〜4週間の休暇を取り、海に行っていました。つまり、休暇といえば、1回、長く休むというものだったのです」と話す。

ビーチの体操に参加する人、クラスノダール地方、1963年

 ちなみに多くの市民が治療を受けられるサナトリウムで休暇を過ごした。治療のコースは3週間以上続き、そこに往復の日数を足すとなると、休暇を分割する意味がないことが分かる。休暇を取るのにもっとも人気があった季節は夏で、ときに企業内のチーム全体で一斉に休暇を取るということもあった。そうしたときには、その間に設備の点検を行ったりした。いわゆる「ベルベット・シーズン」と呼ばれる夏の終わりも、休暇を取るのに人気があった。まだ気候は暖かいが、それほど多くの人がいないからである。

 ソ連時代、もう一つ興味深いものとして、「休暇手当」というシステムがあった。休暇の月には、前月分の給料、その月に働いた日の報酬、そして複雑な計算方式で計算された休暇手当が加えられたものが支払われたのだが、それは事実上、給料に残業手当が加えられた額とほぼ同じであった。

 1991年、ソ連邦崩壊直前には休暇は24労働日となり、2002年になってからは欧州社会憲章に基づき28日となった。

休暇を取らないとどうなったのか?

ラトビアのビーチにて、1960年

 ソ連の労働法の特徴の一つに、1年の終わりに、翌年の休暇の計画を立てるというものがあった。翌年になったら、予定が変わり、申告した時期に休暇が取れないこともあるというのは当然のことなのだが、その場合は休暇をずらすか、その分を賃金として受け取ることができた。しかしこれは職種によって異なり、こうした方法を取る人はほとんどいなかった。

 「休暇を取りたくないという人が強制されることはなく、その分、補償金が支払われました。たとえば、病欠をたくさんした人は、すでに休暇を取ったと見なされ、補償金を受け取ったりしていました」とソ連崩壊直前、モスクワの図書館で働いていたタチヤナ・ソローキナさんは回想する。「しかし、夏に仕事がない学校などでは、休暇は必ず取らなければなりませんでした」。

クリミアのビーチで日焼けをする人々、1970年

 タチヤナさん自身はいつでも好きなときに休暇を取ることができ、人事部との間で合意が得られれば、休暇を数日ずつに分割することもできた(16歳以下の子を持つ母親に与えられた権利であった)と話す。休暇は丸々2ヶ月あった(大学院を修了したあと)。「しかし、普通は、職場に誰もいないというような状況にならないよう、前もって、他の職員たちと相談して休暇の予定を立てました」。

 一方、ワレンチナ・パホモワさんは、「わたしの父は、休暇は分けて取ることができず、また事前に提出した計画に沿ってして取れなかったと話していました」と語る。「父はコヴロヴォ(イワノヴォ州)で働いていたのですが、計画の時期に休めない人はお金で受け取っていたそうです」。

 ユリヤ・ペトゥシコワさんは言う。「わたしの父は休暇をまとめて取ることはありませんでした。1週間は家の修繕、3日はジャガイモ掘りのために取り、残りは補償金を受け取っていました」。

現在の状況は?

アルメニアで太陽を楽しむ人々、1986年

 休暇についての多くの規定はソ連の法律から現在のロシアの法律に引き継がれた。たとえば、いまも、企業では、以前と同じように、前もって休暇の予定表を作る(もっとも、現在は自由に日程を変更できる)。すべての労働者には基本の休暇(28日)があり、労働条件や職業によって、さらに追加の休暇が与えられる。

 しかし、変更された点もある。たとえば、現在は、休暇は数回に分けて取ることができるが、1回の休暇は2週間以上であることとなっている。消化しなかった休暇に対しては年末に手当として受け取ることができるという時期もあったが、現在はその休暇は翌年にそのまま繰り越される。企業によっては、取った休暇が少ない職員を、順番に関係なく休ませるというところもある。退職に際しては、消化しきれなかった休暇の日数分のお金が支払われる。

「ロシア・ビヨンド」がLineで登場!是非ご購読ください!

もっと読む:

このウェブサイトはクッキーを使用している。詳細は こちらを クリックしてください。

クッキーを受け入れる