ロシアのアパートでいちばん重要な部屋:ソ連のキッチンは単なる厨房ではなかった

ソ連特集
ゲオルギー・マナエフ
 ロシア人なら誰でも「キッチン・トーク」の意味を知っている。あなたはどうだろうか?

 「フルシチョフカ」と言えば、安価で簡単に建設できるパネルハウスだ。ソ連のフルシチョフ時代に、住宅問題を解決すべく大量に建てられ、ソビエト市民の大半がこれに住んでいた。その標準的な間取りを見てみよう。

 リビングが非常に狭いことがはっきりとわかる。こういうアパートに4人家族が住むとすれば、2つの部屋が寝室兼リビングになり、夜、誰も寝ない部屋はキッチンだけだ。こんな間取りのせいで、ソ連の台所はそれ自体が社会・政治現象になった。

革命でトイレも共用に

 ロシア帝国には、こうした社会現象は存在しなかった。農民は、家の内部にあるペチカで食事を作ったから、独立したキッチンルームはない。裕福な農民、商人の家族や、都市に住む貴族は、通常、調理する場所として台所を持っていた。そして、台所には使用人が頻繁に行き来した。やがて、各アパートにキッチンが備わっている、大きな集合住宅が現れたが、そこでも人々は、キッチンで長い時間を過ごすようなことはなかった――ソ連時代が到来するまでは。

 ソ連時代初期、国民は、「uplotnenie」(密度を高くすること)という言葉を散々聞かされることになる。1918年に私有財産がボリシェヴィキ政権により国有化され、住居も例外ではなかった。5~6部屋あるアパートの所有者の多くは、政府の命令で、新しい居住者を押し込まれた。命令によると、大人1人につき1部屋しか利用できなかった。

 実際には、このようにして収容できる数をはるかに上回る住民が都市にはいたから、10~12㎡の部屋に家族がまるごと詰め込まれることになった。こうしてソ連型共同住宅「コムナルカ」が登場し、互いに縁もゆかりもない人々が同じアパートに住み、バスルーム、トイレ、キッチンを共有した。

社会生活の中心に

 「キッチンは共有だった。同居人たちと仲良くなれば、台所の各テーブルには家庭用品が置かれたり、あちこちにぶら下げられたりして、その数はアパートの同居人の数と一致していた。彼らが『信頼できない』場合は、マッチや塩まですべて部屋に運び込まれた」。画家のイリーナ・ソヤ・セルコは当時を振り返る。

 キッチンは、共同アパートのユニークな部屋だった。一方で、それは調理のための機能的空間だったが、また一方で、社交場であり、アパートの「フォーラム」のようなものだった。こうした共同生活現象を研究したロシアの人類学者、イリヤ・ウテーヒンは次のように書いている。

 「キッチンは、アパートの社会生活の中心であり、居住者たちが会い、交流する主な場所であり、アパートの生活における、いわば公開イベントのメインステージだった。他の公共スペースは、これほどの多機能を備えたキッチンには及ばなかった。調理その他の家事のためでなく、単なるコミュニケーションのために、人はキッチンに行くことがあった」 。

 「6つの部屋と大きな共同キッチン…。ここで同居人たちは喧嘩したり仲直りしたりした。実にさまざまな人たちがキッチンで、自分たちの暮らしについて、その秘密について話したものだ」。サンクトペテルブルクのSNSの女性ユーザー、olyashlaは回想する。

 しかし、付き合い方はかなりいろいろだった。同居人たちの仲が険悪な場合は、彼らは台所にずっといなければならなかった。調理の間、見張っているためだが、料理がコンロの上にこぼれないように目を光らせただけではない。

 「キッチンはまさに戦場の最前線であり、そこでの戦いは真剣なものだった。『良き隣人』は、他人の料理がまだできていないのにガスを止めた。やかんに塩を入れ、スープに砂糖を加えた。あるいは靴磨きや石鹸を、ちょっとその場を外した間に…。それだけで、夕食は台無しになる」。歴史家アレクセイ・ミトロファノフは書いている。

 共同キッチンのコンロはふつう、同居人の間でそれぞれの「領分」が決まっていた。だから、コンロの一部はきれいに磨かれ、他の部分は汚いことがあり得た。同居人たちは、しばしば衛生観念が異なっていたうえ、他人の汚れを掃除したいとは思わなかったから。

 しかし、同居人たちが仲良く暮らしている場合は、キッチンはお互いの助け合いと陽気なお祝いの場となった。「すべてのお祝い事は、すべての家族、その親戚、友人によって一緒に行われた」。サンクトペテルブルクのユーザー、katerinaamiは回想する。「そして、世話をしたり、何か食べさせたりしてくれる人がいつもいた。ただキッチンに行きさえすればよかった」

「煙が充満したキッチン」

 「煙が充満した部屋」が、秘密の政治集会を意味する英語のイディオムであるように、ロシア語の「煙が充満したキッチン」という表現は、秘密の話し合い、しばしば政治的な議論の場を意味する。ソ連における言論の自由の欠如は良く知られている。誰もが、イデオロギー面では「共産党の進路」に従うことを強いられた。

 多くの場合、本音で話せる唯一の場所は自宅のキッチンだった。しかし、もしその人が共同アパートに住んでいるなら、小声で話さなければならなかった。同居人が、ソ連当局を罵倒しているのを耳にし、KGBに通報するかもしれない。 

 「きみとぼくは台所に座っている。

 …夜明け前にバスケットを縛って。

 駅に向けて出発するためだ。

 そこでは誰もぼくたちを見つけられない」

 詩人オシップ・マンデリシュタームが自分と妻ナデジダをうたった有名な詩だ。この詩のなかで二人は、1930年代初めの秘密警察の手から逃れようとしている。この詩により「夜のキッチン」は、反ソビエト的なものすべてが交差する場、クロノトープとなった。 

 俳優ワレリー・ゾロトゥーヒンは、共同アパートに作家ボリス・モジャエフを訪ねたときのことを覚えている。子供たちは部屋で寝るので、作家はお客たちを部屋に招くことができず、キッチンが彼の書斎を兼ねていた。

 「テーブルの1つには、皿の間にタイプライター、何枚かのきれいな紙、ペンが置いてあった。 …我々は一杯やりながら、主にロシアという国や農民について、さらに人生について語り始めた…。彼はトルストイのことを多く話した。大きな『共同の』ハエが、ランプに巨大な影を落として飛び回っていた」。

 「キッチン・トーク」の文化は、共同アパートの時代を超えて、比較的プライベートな住宅が多数を占める時代にも受け継がれた。1980年代には、すでに大半のソ連国民が家族用のアパートを持っていて、家族以外は誰も住んでいなかった。 

 キッチンの現実は、ロシアの多くのロックソングの歌詞に反映されている。

 「キッチンの言葉もあれば、路上の言葉もある」とロックバンドの「ノーチラス・ポンピリウス」は歌った。

 「私はキッチンが好きだ。秘密を守ってくれるから」。ヴィクトル・ツォイの歌詞にもそれが出てくる。

 ロシアのキッチンのほとんどが依然として、ロシアのアパートの「社交場」であり続けている。アパートの大半が比較的せまいためだ。

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