ロシアのおとぎ話の主人公の中でももっともよく知られるイリヤ・ムーロメツとエメーリャは、ロシアのペチカと切っても切り離せない関係にある。イリヤ・ムーロメツは魔法の力を与えられて悪の力との戦いに出発するまで、33年間、ペチカの上で横になっていた。一方のエメーリャはペチカの上で毎日うとうと昼寝ばかり、まるで車に乗っているかのようにペチカに揺られていた。ペチカはフォークロアの中にただ存在していただけでなく、その周りには20世紀半ばまでのロシアの生活習慣が溢れているのである。
ペチカは家の中でもっとも暖かい場所である。ペチカに横たわり、ゴロゴロするのは、農民にとって究極の夢であった。冬の寒い時期、農民たちはそのように時間を過ごした。しかもペチカに横たわることができたのは男性、家長、あるいは老人だけであった。女性はペチカをいつでも「使える」状態にしておき、料理をし、その他の家事をしなければならなかった。子どもたちは大人の許しがあれば、短時間なら、お楽しみとしてペチカの上に上ることができた。
ペチカはロシア文学の多くの作品に登場する。たとえば、マクシム・ゴーリキーの「幼年時代」の中でもペチカはたびたび描かれている。
「わたしはペチカと窓の間に寝ていた。床は十分な長さがなく、足はペチカの下に突っ込み、その足をゴキブリがくすぐった。この角はわたしに少なからぬ悪しき喜びを与えてくれた。祖父はいつもこっそり鍋つかみや火かき棒の端っこで窓ガラスを割っていた」。
ペチカのそばには「おかみさんたちの角」あるいは「クート」と呼ばれる場所があり、男性は近寄ってはいけないことになっていた。そこには食器が収納されており、女性たちは手芸をした。木造家屋の中には、クートとその他の空間を分けるカーテンがつけられている場合も多かった。花嫁たちは結婚式までそこに隠れ、また女性たちはそこで出産をしたり、授乳をしたりした。
新しい家屋が建てられるときには、手始めにペチカの設計が行われ、それを中心に他の場所が設計された。このことから生まれたのが、ロシアの諺「ペチカから踊る」というもの。そのほかにも、ペチカにまつわる諺はたくさんある。「ペチカに横たわっていては、ペチカには何もないまま」、「カラチ(パン)が食べたければ、ペチカに横たわるな」などである。
ロシアのペチカが現在のような形になったのは15世紀くらいのことである。ペチカは地域によって、その構造や材質が異なっている。石造りのものもあれば、粘土のものもあり、また薪がくべられた(稀に厩肥を固めたものや藁、泥炭などが使われた)。
ペチカは伝統的なロシアの家屋において、主要なインテリアの要素であるが、古いペチカは壁の半分ほどを占めるほど大きかった。ペチカから対面する壁に向けて木製の板のようなものが取り付けられ、その上で寝ることができた。
ペチカはロシアの生活にとって非常に重要なもので、ペチカを作る人というのは需要のある非常に権威ある職業であった。というのも、ペチカの構造は非常に複雑だったからである。
ペチカの主要な部分は薪が燃される炉、あるいは焚き口である。ここでは料理を作ることができた。薪を燃したペチカ、あるいは火が消えた後のペチカに粘土製または鋳鉄の壺を置き、特別な鍋つかみを使って調理した。これらの調理具は今でもロシアの民俗博物館に行けば大抵目にすることができる。炉がかなり大きく、中で体を洗うことができるようなペチカもあった。
炉の下に特別なくぼみがあり、そこでパンを焼いた。ペチカがまだ熱いうちに置いておくと、まず表面がカリカリに焼け、次第に温度が下がっていくにつれて中まで火が通るのである。またペチカではベイクドミルクも作られた(このユニークなロシアの飲み物について詳しく知りたい方はこちらからどうぞ)。
寝床が作られていた場所は「ペレクルィシカ」と呼ばれ、暖かい風が集まる天井の真下に作られていることが多かった。熱されたペチカは長い時間をかけて冷めていくため、食べ物や水を温めることもできれば、「ペチュルカ」と呼ばれる小さな隙間ではキノコやハーブを保存したり、乾燥させたりすることができた。あるいは衣類や靴を収納する場合もあった。
薪、火かき棒などの道具は、ネズミやゴキブリの住処である「ポドペチエ」と呼ばれる特別な場所で保管された。ここにはゴミや屑も集められた。
裕福な家庭のペチカは模様の入った粘土のタイルで飾られていた。このタイル工芸は、“ロシア風”のスタイルが流行した19世紀末から20世紀初頭にかけて、需要が高まった。こうした装飾の要素としてのタイルは今でも人気がある。(装飾用タイルについてはこちらの記事をどうぞ)
冬の農民家屋の風景
Public Domain迷信深いロシアの農民たちは、ペチカあるいは「ポドペチエ」の中にはドモヴォイ (家の精)が住んでいると信じていた。またペチカは病を治してくれるものだとされ、少しでも早く回復するようにとその上に病人を寝かせ、またペチカから出る蒸気は有益なものだと信じ、それを吸ったものだった。ペチカの燃えかすは捨てずに、病気や怪我を治すために塗ったり、煮出したり、さらにはもっと実際的な目的で、石鹸のように寝具を漂白するのに使った。
ペチカには最初の寒気の到来とともに火が入れられ、10月から4月か5月ごろまで使われた。ロシアには、天気についての多くの迷信や言い伝えがあるが、人々はペチカを使って天気を予測した。吸い込みが強く、火が赤いと、酷寒が来ると言われ、薪が静かに燃え、火が白いと雪解け間近だと言われた。
『古い家屋にて』、スタニスワフ・ジュコーフスキー作
トヴェリ美術館19世紀の半ばごろから、ペチカはオランダ製のコンパクトなレンガの暖炉に、その座を明け渡すようになる。オランダ製の暖炉はサイズが小さいだけでなく、構造もシンプルであった。上に横たわることはできないが、料理を作るための小さな空間はあった。
現在ロシアのペチカを目にすることはほとんどなく、見られるとしたら博物館だけである。現代の木造の家々では今でもオランダ製の暖炉がつけられている。
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