ソ連で米ドルを所有することは違法だったか

Valery Christoforov/TASS
 ソビエト政権は米ドルを資本主義の権化と見なしていた。外貨を得られる条件は厳しく、違反すれば厳しく処罰された。最悪の場合は銃殺刑だった。

 ソ連の人々はドルの持つ意味をよく理解していた。西側の「資本主義的な敵」を批判するソ連の雑誌の風刺画に、しばしば米ドルが描かれていたからだ。だが、彼らが本物のドル札がどんなものか知っていたとは言えない。多くの人が、ソ連が崩壊するまでドルを手にしたことがなかったのだ。外国ではもっと高いレートで両替されているなどと言って赤いドル札を売りつける詐欺も闇市で横行した。

大原則

 まず、通貨の取引は国の専売だった。地下歩道や主要な観光地に両替商などいなかった。

 次に、一般のソビエト市民は専らルーブルを使う機会しかなかった。政府が短期的な出国を許可した場合のみ、ルーブルを外貨に替えることができた。両替はヴネシトルグバンク(「外国貿易銀行」)の部署でのみ行われ、取り扱いは正午までだった。部署には少人数しか入れず、入口では2人の警官が国外渡航の許可証を確認していた。

ソ連邦国立銀行のテラーは窓口で接客をする

 帰国の際は外貨について予め税関に申告し、数日中に国家に提出しなければならなかった。引き換えにチェーン店の「ベリョースカ」で使える専用の証書が渡された。棚ががらがらで品薄が常態化していた一般的な店とは異なり、「ベリョースカ」には常に商品が溢れていた。「ベリョースカ」を訪れる機会に恵まれる者は非常に少なかった。基本的に外交官や船乗り、党上層部のメンバー、スポーツ選手、芸能人などだけだった。 

「ベリョースカ」店の客

 以上はソ連内で両替する場合の手続きだ。もし外貨が国外で直接得られたものなら、別の手続きがあった。まず、金を国家に提出しなければならなかった。国家は利子を取り、残りを所有者の名義の口座に入れた。それを現金化できるのは、次回外国へ行く時だけだった。

 金を国外に送って外国の銀行で現金化するにも、国家の特別な許可が必要だった。

「ベリョースカ」店の内装

 この原則は外国人に適用されなかった。外国人はソ連の「ベリョースカ」で自由にドルを使い、公式の相場でルーブルに両替することができた。しかし、需要と供給によって正当化できないのに、相場はどう決まっていたのか。ソビエトのシステムはそうした状況も見越していた。

プロパガンダのトリック

 ルーブルを両替して得られる額はわずかだった。公式には、両替できるのは30ルーブル以下だった。「ソビエト市民は貴重な外貨を食事ではなく何か身の回り品の購入に充てられるよう、缶詰でいっぱいのスーツケースを引きずっていた」とソーシャルネットワークのユーザーが回想している。

「ベリョースカ」チェーン店のお土産ショップ、サンクトペテルブルク

 公式の両替は不当に低い相場で行われた。1ドル=67コペイカだ。矛盾は他にもあった。ソビエト政権の指導的な機関の公式新聞だった「イズベスチヤ」紙が毎月わずかに変動するルーブルの外貨に対する相場を掲載していたのだ。つまり、ソビエト市民は皆、例えば1978年9月に100米ドルは67.10ルーブル、100フランクは15.42ルーブル、100マルクは33.76ルーブルだということを知ることができた。

モスクワのホテルで両替をする外国人観光客

 このような相場を見れば、導き出される結論は一つだ。ソビエト・ルーブルは世界で最も強い通貨単位ということになる。こうした相場情報には、プロパガンダ上の目的しかなかった。実際のところ、これは現実の市場価格からかけ離れていた。

投獄と銃殺

 ソビエト市民は1927年に外貨から隔絶された。この年にボリシェヴィキ政権が民間の外貨市場を禁じたのだ。それまではどの国の通貨でも、自由に売ったり、保管したり、送金したりすることができた。そしてちょうど10年後に刑法25条が現れ、ここで通貨取引を政治犯罪に相当する罪とすることが定められた。

外貨の違法取引の取り締まりで没収されたドルと宝飾品

 ドルを持つことを禁じる理由を、スターリンは次のように説明している。「もし社会主義国家が自国の通貨を資本主義の通貨と結び付けるなら、自立した安定的な金融経済システムを、社会主義国家は忘れなければならない」。

 違法に通貨を取引した者は、8年以下の懲役刑に処され得た。1961年にはニキータ・フルシチョフ政権下で刑法88条が現れ、最低でも3年間の自由の剥奪、額が大きければ死刑(銃殺刑)に処されると定められた。

ソ連で違法の外貨取引を行っていたヤーヌ・ロコトフ。1961の刑法改正で88条が現れたため、違法に通貨を取引した罪で死刑に処された。

 両替商の取り締まりがこれほど厳しかったのは、禁制の裏で闇両替が横行していたことによる。まさに闇市場で、ソビエト・ルーブルの米ドルに対する実際の相場が決まっていたのだ。1ドルは67コペイカではなく、8~10ルーブルだった。

 両替商は、外国人観光客をホテルのそばでそそのかしてドルを買い占めていた。両替の提案を聞いた外国人は喜んで合意した。闇両替商はソビエトの銀行の公式の相場の5~6倍の値でドルを買ったからだ。

 外貨を違法に所有することに対するスターリンの禁制と「銃殺条項」は1994年まで残っていた。ただし、一部の人の回想によれば、それより前から当局は闇両替に目をつぶるようになっていたという。「私は量り売りのウォッカ100グラムを2杯、ハムの載ったオープンサンドを2枚注文し(これは90年頃のことだ)、黙って人生初のドル(人からもらったもの)を置いた。すると向こうも黙ってルーブルで釣り銭を出した」。

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