ロシア人の出てくる映画やドラマの制作陣は、難しい問題に直面する。ロシア人キャラクターに適切かつ月並みでない名前を付けなければならないのだ。その想像力の逞しさは羨むべきものだ。
Ы(ゥイ)で始まる名前
普通のロシア人の名前をキリル文字で書こうとするだけでも喜劇になり得る。米国の映画制作者の常套手段は、アルファベットを置き換えることだ。『スペース・フォース』(Space Force、2020年)のあるエピソードでは、ロシア字キャラクターの制服に「テラトヴィツフ・ゥイ・エス」(Телатовицх Ы.С.)と縫われている。一体どんな名前なのだろうか。脚本家によれば、「ユーリー・テラトーヴィチ」(Юрий Телатович)だそうだ。ではこのヘンテコな綴りはどこから出てきたのか。どうやら答えは単純だ。ユーリーは英語表記で「Yuri」だが、最初の「Y」はロシア語の「Ы」の表記にも用いられる。それでこのようなイニシャルになったわけだ。姓のテラトーヴィチはというと、「ch」の「c」を「ц」に、「h」を「х」に置き換えたらしい。興味深いことに、このキャラクターを演じたのはロシア人俳優のアレクセイ・ヴォロビヨフだ。彼はなぜ気が付かなかったのか。
大爆笑を誘うような失敗もある。『ザ・ワイヤー』(The Wire、2003年)の第2シーズンでは、「ドヴラシチ・ルシトヴクフィルシト」(DOВЛАЩ ЛШТВКФЫРШТ)なる名前がパスポートに記されている。姓は、このキリル文字の配列の通りローマ字キーボードで打てば、「キンドラシン」(Kindrashin)となり、これならまあロシアに存在しなくもない。一方ローマ字混じりの奇怪なファーストネームは解読不能だ。
そしてもちろん、『ボーン・アイデンティティー』(The Bourne Identity、2002年)に登場する「フォマー・キニャーエフ」(Foma Kiniaev)ならぬ「アシチフ・ルシトシフム」(Ащьф ЛШТШФУМ)は、もはやハリウッドのネーミングの伝説となっている(ロシア語キーボードでローマ字のFoma Kiniaevの配列通りに文字を打ち込むとАщьф ЛШТШФУМになってしまう)。
大切なのは、-оффで終わること
ロシア人の苗字は「~オフ」(-ов)で終わるものが多く、Smirnoff、Sokoloffのように、ローマ字では「-off」と書かれる。それで時には、「-off」を付けるだけでロシア人っぽくなるという安直な発想が生まれる。だが、映画『ヒットマン』(Hitman、2007年)に登場するロシア大統領の兄弟の名前「ウドレ・ベリコフ」(Удре Беликофф)は、どうしても嘘臭い。たぶん、「ウドレ」がロシア人の名前じゃないからかな?
人間なら良し
映画『ジョン・ウィック』(John Wick、2014年)の登場人物も、ロシア人が見ればクスッとしてしまう。どうして主人公を「バーバ・ヤガー」(「ヤガー婆さん」:ロシア民話のキャラクター)と名付けたりしたのか。そして主人公と対立するのは、最も「ありふれた」名前を持つロシア人盗賊、ヴィゴ・タラソフ(Viggo Tarasov)だ。
「ありふれた」名前といえば、近年のロシアを最もステレオタイプ化して描いた映画『レッド・スパロー』(Red Sparrow、2018年)に登場する「ドミニカ・エゴロワ」を忘れるわけにはいかない。あまりにロシア人らしくないため、ロシア語版ではヒロインは「ヴェロニカ」に改名されている。
映画『アウトロー』(Jack Reacher、2012年)では、トム・クルーズ演じる主人公の前に立ちはだかるマフィアの謎めいた組長の名はなんと「ゼック・チェロヴェーク」(「ゼック人間」)。彼のパスポートに記されている名前が気になるところだ。
父称? 何それ?
難しい事だが、ロシア人には姓名の他に、父称がある。そしてこのことが、多くの映画で言語学的混乱をもたらしている。英国のドラマ『マクマフィア』(McMafia、2018年)では、かなりの努力がされている。ロシア人キャラクターを演じているのはロシア人で、妙な訛りなどの問題はないが、しかし名前で躓いている。ロシアのパスポートには姓の代わりに父称の「ニコラエヴナ」が記されており、当の父称は存在しない名前グロブ(Глоб)から作られている。
映画『ソルト』(Salt、2010年)も、父称の扱いに困ったらしい。父称のヴァシーリエヴィチの代わりに単にヴァシーリーと書かれている(オルロフ・オレグ・ヴァシーリー)。