ロシア史に足跡を残してきた7人のアジア系ロシア人

 東洋と西洋にまたがるロシアは、その歴史の大部分においてヨーロッパというよりむしろアジアの土地であった。政治からスポーツまでさまざまな分野で活躍してきたアジア系の人々を見てみよう。

1. ピョートル・バドマエフ、チベット医学の医師

 ピョートル・バドマエフ(1851~1920)はブリヤート系の家族の出身だった。イルクーツク(モスクワから5300キロメートル東)に生まれた彼はサンクトペテルブルク大学の東洋学部を卒業した。彼はチベット医学の医師として有名になった。バドマエフは自分の庭で植物や薬草を栽培していた。彼の治療法は決して公開されなかったが、大変効果的で、彼はついに皇帝アレクサンドル3世とその息子ニコライ2世の医師となった。彼は故郷のブリヤートのためにも尽力し、教育の向上、新聞の創刊、バイカル地方の金採掘協同組合の組織を実行した。チベット医学に関するバドマエフの研究が広く認知されたのは彼の死後のことで、1991年にはロシア科学アカデミーが彼の研究についての本を出版している。

 

2. ヴィクトル・ツォイ、ロック界のレジェンド

 ロシア生まれの朝鮮人であるヴィクトル・ツォイ(1962~1990)が世代を代表する声の持ち主になろうとは、ほとんど誰も予想しなかった。特段ハンサムというわけでも、サンクトペテルブルク(当時はまだレニングラード)の同世代のミュージシャンの中でずば抜けて才能に恵まれていたというわけでもなかったが、彼の曲は今や伝説となっている。彼は現実に抗わなかった。彼が言うには、変化は避けられないのだから、現実は無視して良いのだ。ツォイの書く歌詞は明快で、彼は誰もが共感し得た(そして今なおし得る)力強いメッセージを乗せるためにロシア語の簡単な単語を用いた。なるほど彼はプーシキンやブロツキーほど言語表現に優れていたわけではない。しかし彼は確かに自身の歌詞でその名を残した。

 

3. セルゲイ・ショイグ、政治家

 1955年にトゥヴァ共和国に生まれたセルゲイ・ショイグは建設業で働いてきたが、1991年に非常事態省の政府委員会の委員長となった。1994年から2012年まで非常事態相を務め、2012年以降はロシアの防衛相を務めている。ショイグはロシア連邦で在任期間が最長の大臣だ。世論調査では、彼は政府内で最も信頼の置ける大臣として数度指名されている。ショイグは正教信者だが、故郷では仏教が浸透しているため、ロシア内の仏教の保護にも取り組んでいる。

 

4. セルゲイ・カワゴエ、ミュージシャン

 この男はロシアでの知名度は高くないが、1970年代とそれ以降にロシアで最も人気を博したロックバンド、“マシーナ・ヴレメニ”(“タイムマシン”)の背後にいた。セルゲイ・カワゴエ(1953~2008)の父親、川越史郎はソ連の日本大使館で通訳として働いていた。日本に親戚を持つカワゴエは、日本の高価なエレキギターとキー(ソ連期には品薄だった)を調達することができ、そのため彼は“マシーナ・ヴレメニ”の創設者アンドレイ・マカレヴィチに招かれ、自身の楽器を携えてバンドに参加した。セルゲイのおかげで、バンドは日本の最も洗練された楽器を持つ機会を得た。セルゲイ自身も多くの楽器を演奏し、作曲もしていた。

 創作上の軋轢が原因で“マシーナ・ヴレメニ”を去ったのちの1979年、彼はロシアで人気を得た別のロックバンド、“ヴォスクレセニエ”(“復活”)を立ち上げた。1980年代末、カワゴエはロシアを去って日本へ向かい、その後カナダへ移住した。残念ながら、彼が音楽の世界に戻って来ることはなかった。2008年に心不全のため亡くなった。

 

5. コスチャ・チュー、ボクサー

 コスチャ・チューは1969年、エカテリンブルク州で朝鮮系の家庭に生まれた。彼の祖父は中国から移住した朝鮮族だった。コスチャのボクサーとしてのキャリアは9歳で始まり、17歳までに彼はソ連のジュニア・チャンピオンに輝いた。1989年と1991年に彼はヨーロッパ・チャンピオンとなり、1991年には世界チャンピオンとなった。2001年から2003年まで、チューは無敗だった。

 2005年に36歳で彼は引退を表明し、若いスポーツ選手たちの育成を始めた。また彼は多くの慈善活動を行い、ロシアにおけるボクシング発展事業のスポークスマンを務めている。2011年、彼は国際ボクシング名誉の殿堂に加わった。

 

6. ユーリー・キム、シンガーソングライター

 シンガーソングライターで詩人、作家でもあるユーリー・キムは1936年に生まれた。父親は朝鮮語―ロシア語通訳で、母親はロシア人教師だった。若い頃、学校の教師として働きながら、彼は生徒たちと歌詞と踊り付きの短い曲を作り始めた。同時に、ソビエト反体制派に参加した。彼は有名な反体制派活動家ピョートル・ヤキールの娘と結婚し、抗議書簡に署名し、集団的な運動に参加した。1968年、彼は政治的な理由で教育活動を禁じられ、ペンネームを使って演劇や映画用の音楽と歌詞を作り始めた。1980年代末にかけて、彼はようやく再び実名を用い始めた。この時、彼はすでにロシアにおける歌手・作曲家らの地下活動のスターとなっていた。彼の名声はソ連崩壊後のロシアで高まり、今や彼は一流のフォークソング歌手と見なされている。2015年、キムは年に一度ロシア国内の詩人に授与される“詩人賞”を受賞した。

 

7. イリーナ・ハカマダ、ビジネスウーマン、政治家

 イリーナ・ハカマダは1955年にモスクワで、ソ連に移住した日本人の共産党員の父親とロシア人の母親のもとに生まれた。彼の兄、袴田茂樹は日本でロシア研究の教授職に就いている。イリーナは経済学でキャリアを積み、博士候補者の学位を取得した。彼女のキャリアに転機が訪れたのは1990年代初め、政治家で実業家のコンスタンティン・ボロヴォイとともにモスクワのロシア商品・原料取引所(RTSB)の創設に携わった時だ。1992年から彼女は政治家としてのキャリアを積み、国会議員となり、2004年には大統領選に出馬し、3.84パーセントの票を得た。現在、彼女は国防省の公衆審議会のメンバーだ。彼女はまた、ビジネス顧問、起業家、作家としても活躍している。

 

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