なぜウドムルト人はロシアの異教徒で、どうして彼らは恐れられるのか

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エカテリーナ・シネリシチコワ
 ウドムルト人は中央ウラルに住む人々だが、彼らの心には数世紀を経てなお異教が根付いている。彼らは地獄も天国も信じない。戦わないし暴動も起こさない。自分たちのことを“格別に平和愛好的”と呼ぶ。そして武器を集めている。

 “タンポポ”の頭は刺繍の入ったスカーフで幾重にもしっかりと覆われ、髪が何色かは分からない。多くの人が“真のウドムルト人の証”と考える赤毛か、あるいは濃い茶色なのか。

 「女性の髪が何色か知りたければ、頭以外の部分を見る必要があります」と彼女は笑う。極寒の空気で彼女の笑いは湯気になる。「今はすべてが当てにならない時代ですから。髪さえもまやかしです。」

 彼女の名前もまた一部まやかしだ。実際のところ、彼女はタンポポではなくスヴェトラーナという。彼女がタンポポだったのは、ウドムルト人がパスポートを受け取り、“正常の”名前を持つことを義務付けられる以前のこと。彼女は未だに異教徒だ。ウドムルト人の誰もが心の中ではそうだ、とタンポポは言う。私たちは神聖な農民小屋“クアラ”のそばにいた。見た目は一般的な丸太づくりのロシアの農民小屋と変わりない。 

 「ウドムルト人は多神教信者です。何を信じているのかは、どう説明したらいいか自分たちでも分かりません。信仰の本質は自然で、自然にはたくさんの神々がいますから。」

 農民小屋の中は暗くて狭く、温かい。生贄を捧げるための一族の紋章入りの鉢などの儀式用の道具や、命の木を象った刺繍の施された1930年代のスカーフが並べられていた。これはすべて展示品で、タンポポ=スヴェトラーナは正式には、ウドムルト共和国(モスクワの東1270 km)にある保護区博物館“ルドルヴァイ”の主任学芸員なのだ。これは中央ウラルに位置し、保護区から数キロ離れたところに同名のウドムルトの村がある。

 

遠慮がちな北の人と南の人

 南北のウドムルト人の大半は、何世紀か以前もそうであったように、ウドムルト共和国内のカマ川とヴャトカ川流域で生活している。2010年の全ロシア国勢調査によれば、彼らの数は55万2千人。17世紀に共和国の北を横切ってシベリア街道が通った。これはヨーロッパ・ロシアから中国国境まで延びる古い陸上の商業交通路である。このため多くの点で北のウドムルト人は南の人々より“ロシア化している”と見なされている。これが一つ目の違いである。

 二つ目は外見。南のウドムルト人は赤毛で眼が青く、北のウドムルト人は黒髪で黒い瞳をしている。三つ目は性格。南の人々は開放的で、北の人々は閉鎖的だ。四つ目は信仰。18世紀半ばに大半のウドムルト人が正教会に改宗したにもかかわらず、共和国の南では、ロシア化の結果正教会が優勢な北に比べ、異教の村が随分と多い。

 ウドムルト人がキリスト教を受容していった様子は、どの村でも記憶に留められている。しかし、このことについて話す人もいれば、口をつぐむ人もいる。改宗は必ずしも公正なやり方で進められたのではなかった。ただしスヴェトラーナ=タンポポの説では、信仰は遺伝的なものである。売ることも変えることもできない。ウドムルト人は“森の人”と呼ばれたが、今でもそうであり続けている。

 「私たちは反抗的な民族ではありませんし、頑な民族でもありません。多くの憤慨を内に秘めているかもしれませんが、いずれにせよ率直に言って暴動に出たりしません。私たちは言葉を飲み込み、何も言いません。『私たちに構わないでほしい。』皆黙ってこう思っています。」

 およそこのようにして、ウドムルト人は15世紀の終わりにロシアの一員に加わった。もちろん、これを「加わる」と言えれば、の話だが。隣のタタール人とは違い、独自の国家体制を持ったことは一度もない。この民族は小規模の集団で暮らし、国家建設の野望を課題としていなかった。

 そして、その後ウドムルト人は自分自身に気兼ねするようになった……。

 

ウドムルト人であることは……

 「ウドムルト人であることは、視野が狭くて愚かな人間であることを意味します。」ウドムルト共和国の首都イジェフスクに住むニキータはこう説明する。これはソヴィエト時代の過去のロジックだ。ウドムルトはソ連の工業の中心地の一つになったが、ウドムルトは、村から出て来た教養のない人々として、下働きの労働者の同義語になった。

 「今では出自について大っぴらに話せますが、昔だったらきっと『俺のどこがウドムルトだって言うんだい、俺はロシア人だ』という言葉を聞いたことでしょう。ましてパスポートにも“ロシア人”と書いてありましたから。ウドムルト人がパスポートを受け取ったとき、しかもこれは1970年代後半になってのことですが、このとき私たちに選択肢はなかったのです。

 ニキータの知り合いの女性は30歳を過ぎて間もないが、ウドムルト人の家庭で彼女がウドムルト語を聞く機会は稀で、そのため彼女は母語を理解できない。学校でも誰もウドムルト語を話さず(農村のいくつかの学校で聞かれるだけ)、外でも聞かれず、標識にも書かれていない。「ウドムルト人はもともと謙虚な人々です。何かを押し付けるということは、純粋にメンタリティーの点から、私たちにはできません。」こう指摘するのはナージャ。彼女は過去15年間ウドムルトで観光ガイドとして働き、観光客に土地の民族的特色を見せている。共和国は観光客を引き込むに当たり、民族的特色という点に期待している。 

 この“謙虚さ”もまた、出自に対する羞恥心から来ているのだという見方があるのも確かだ。しかし今ようやく民族的な誇りが公然と発現し始めた。しかも奇妙なことに、始まりは漫画からだった。ウドムルト語で書かれた漫画は共和国の新たなトレンドとなった。

 

武器を持った魔術師 

 今日では街への出稼ぎが、収入を得るためのほとんど唯一の手段だ。ルドルヴァイ村にはガスが通っていて、学校や図書館もあるが、例えば未だに店、病院、薬局すらもない。だからパンすら自家製のものだ、とアンナ・ステパノヴナは語る。

  彼女の村カラマス・ペリガの70%が1960年には異教徒だった。彼女は、村全体が野に立ち空に手を広げていた様子を今でも覚えている。その後彼女はよく知らない男性との結婚を仲介され、そしてその男性は彼女をルドルヴァイへ連れて行った。 

 「夫を私はよく知りませんでした。何度か見かけただけで、その人と結婚するなんて考えてもみませんでした。でもこういうことは昔ふつうだったんです。今ではもちろんありませんけど……。」

 ルドルヴァイには今日千人余りの人が住んでいる。最寄りの街であるイジェフスクまでは19 kmある。アンナ・ステパノヴナはタンポポとともに博物館で働き、以前は天候にかかわらずそこまで3 km歩いていた。今ではワゴン車ガゼルで送迎してもらっている。

 ルドルヴァイの住人は皆イジェフスクの工場で働いていました。ルドルヴァイには広大な畑とコルホーズ(ソ連における集団農場)がありました。今日ではコルホーズはなくなり、個人経営の農場だけになりました。農作業はしていますが、人手が足りません。街から100 kmも離れた村の人は、村から出ることもなく暮らしています。家は木造で、自分の農園があり、季節によってはイチゴを売ったり、材木を売ったりしています。若い人は出て行っています。実家へはせいぜい休日に帰って来るかどうかです。帰ったところで、本当に何もすることがないですから。

 現在でも大半のウドムルト人が、“蒙昧な人々”というステレオタイプを克服したにもかかわらず、半世紀を経てなお工場で働いている。最も非戦闘的な民族が、さまざまな事情が重なって武器を生産している。イジェフスクの工場の半分がこの製品の製造に従事している(この中には財閥“カラシニコフ”も含まれる)。

 しかしウドムルト人が恐れられるのは武器のためではない。「彼らは魔術師だ」というよく知られた噂があるのだ。

 「シャーマンや病気の回復といったものはありましたか?」

 「シャーマニズムが姿を消したことはありません。病気の回復ももちろんありました。」

 アンナ・ステパノヴナの声は真剣で深みのあるものになり、眼は緑で鋭く知性に溢れた。こんな話があったという。コルホーズの議長が小さな農民小屋“クアラ”を横流しして薪にしたところ、彼は数日後に死んでしまった、偶然の一致かもしれない。しかし、これはウドムルト人になせる業でもある、という人もいる。