スターリンの妻、ナジェージュダ・アリルーエワとはどんな人物だったのか?

歴史
ソフィア・ポリャコワ
 31歳という若さで、この女性は謎めいた拳銃自殺を遂げた。彼女を非業の死へいざなったものとは何だったのか、夫の裏切りなのか、それとも粛清の恐怖だったのか?

 若き女学生だったナジェージュダ・アリルーエワ(1901〜1932)が40歳のスターリンと結婚したとき、彼女はまさか自分の夫が間もなく「人民の父」となることなど思ってもみなかっただろう。謙虚だったとも、誇り高く明確な目的意識をもった女性だったとも言われている。権力を目指したことも、「ファースト・レディ」の地位を夢見たこともなかった。

 何が彼女を破滅へと導いたのか、いまだ正確なところは定かではない。夫の激しい性格のせいなのか、やはり独裁者と共に生きることはできなかったからなのか、はたまた単に精神的な問題からなのか、彼女を苛んだ激しい嫉妬心によるものなのか… 

レーニンの友人だった家族 

 ナジェージュダ・アリルーエワの両親は、社会民主主義運動の有名なメンバーだった。スターリンだけではなく、レーニンとも親しい付き合いがあり、彼を追跡から自宅に匿っていたこともあった。

 一方、将来の「人民の指導者」とアリルーエフ家は本物の友情で結ばれた関係で、スターリンはよくバクーの彼らの家を訪れていた。1903年にスターリンが2歳のナジェージュダの命を救ったという逸話が家族に伝えられている。海岸で遊んでいて海に落ちてしまったところを、将来の夫であるスターリンが彼女を水から引き上げた、というものだ。 

 1917年、流刑地のシベリアからペトログラード(現サンクトペテルブルク)に戻ったスターリンは、そこで成長したナジェージュダと出会う(家族は当時すでに北の都に居を移していた)。その時のスターリンはすでに政治的なキャリアを積んだ有名な共産党員となっており、一方のナジェージュダはギムナジウムに通う女学生であった(彼女はその後ギムナジウムを卒業することはなく、そのため、秘書として働いていたときには自身のロシア語の間違いにコンプレックスを抱いていた)。

 スターリンとナジェージュダの娘、スヴェトラーナ・アリルーエワは後に母親の外見をこう描写している。「母の南方の顔立ちは、ジョージアをよく知らない人に彼女をジョージア人だと思わせるものでした。実際には、整った楕円形をした顔の輪郭、黒い眉、少し上に反った鼻、浅黒い肌、真っ直ぐに伸びた黒い睫毛の中から覗く柔らかい褐色の瞳、といった母のような顔立ちは、ブルガリア人、ギリシャ人、ウクライナ人にもよく見られるものです。だけど、母にはそんな容貌にさらに何かジプシーの雰囲気が混ざっていました。東方のいわく物憂げな感じ、悲しげな瞳、ややかさついた長い指、などがそうです」。事実、ナジェージュダはジョージア人ではなく、彼女にはジプシー、ロシア、ドイツ、ジョージアの血が流れていた。 

 年齢差があったにもかかわらず、彼女とスターリンの間にロマンスが燃え上がった。うら若き少女がいったいスターリンの何に惹かれたのか、私たちの知る由はない。

 アリルーエフ家と近しかったイリナ・ゴグアはこう回想している。「…あるとき、セルゲイ・ヤコヴレヴィチ(ナジェージュダの父)がひどく興奮した様子で駆けつけて、彼(スターリン)がナージャ(ナジェージュダの愛称)を連れ去ってしまった、と言いました。ナージャは当時、おそらく16歳にもなっていなかったでしょう。10月革命の後だったと記憶しています。スターリンは彼女を前線に連れて行ってしまったのです」。彼らは1918年(公式には1919年)に結婚した。ナジェージュダは17歳、スターリンは40歳のことであった。 

厳格な母と優しい父スターリン 

 党執行部とともにモスクワに移ったナジェージュダは、レーニンの秘書の一員として働き始めたが、間もなくその仕事も、その他の社会的な活動も一旦辞めざるを得なかった。1921年、夫婦に息子のワシーリーが誕生したのだ。また、同じ年にスターリン家に前妻との間の息子ヤコフが移り住んできた。ナジェージュダは自分の殻に閉じこもりがちなこの少年をやさしく受け入れたが、ヤコフと父スターリンの関係は全くうまくいかなかった。

 ナジェージュダは主婦としての役割が好きになれなかった。娘のスヴェトラーナが生まれる少し前、彼女は友人への手紙にこう書いている。「また自分を家庭に縛り付けてしまったことをひどく後悔しています。昔のように簡単なことではないもの。今の時代の多くの新しい偏見は恐ろしいもので、もし働かずに家にいようものなら、もちろん、それはもう「無学な百姓女」となってしまうのだから。(中略)是非とも専門的な知識や技術を持つ必要があります。"秘書"のように誰かの言いなりになって使い走りにならならず、専門性に基づいて仕事をこなすように…」。

 子供たちが成長すると、彼女は仕事と党活動に復帰し、産業アカデミーに入学した。同時にフランス語や音楽も学び、写真にも熱中した。

 ナジェージュダは、自分の子供たちに多くを要求する厳しい母親だった。スヴェトラーナ・アリルーエワは両親についてこう回想している。「母はめったに可愛がってくれませんでしたが、父はよく私を腕に抱いて、強く愛情のこもったキスをするのが好きで、『すずめちゃん』などのかわいらしい愛称で呼んでくれました。あるとき、私は下ろしたてのテーブルクロスにハサミで穴をあけてしまったことがありました。ああ、母に手を打たれたときのその痛さと言ったら!私があまりにも大声で泣き叫んだものだから、父が来て私を腕に抱き、慰めながらキスをして、何とかなだめたのです…!」  

 夫婦が交わしていた手紙を読むと、彼らの関係は理想的なものだったかのように思える。スターリンは妻を「ターチカ」という愛称で呼び、彼女の学業や子供たちを気にかけ、手紙の最後はいつも「愛する君への口づけを」と結んでいた。ナジェージュダも同じように、親身に夫の健康と仕事を気づかい、事細かにいろいろと書き綴った。

 しかし実際のところ、ナジェージュダは嫉妬心に苛まれていた。「どうもあなたから何の知らせもないようね(中略)きっと、ウズラ狩りに夢中になっているのかしら(中略)あなたのことを若い魅力的な女性から聞きました。とても立派な人だって(中略)とても快活で、笑いながらみんなの肩を揺すったり、抱きついたりしているって(中略)私はとても嬉しいわ」と手紙の一つに彼女は書いている。

 一方スターリンは手紙でこう釈明している。「君は何か旅行のようなこと(訳注:ウズラ狩りのこと)をほのめかしているね。言っておくが、どこへも(まったく「どこへも」!)出かけていないし、出かけるつもりもないよ」。

 姉の回想によれば、ナジェージュダはスターリンのもとを去ろうとしたほど思いつめていたようで、1926年には子供たちを連れてレニングラード(現サンクトペテルブルク)へ行き、もう夫のもとへは戻らないつもりだったが、結局このときは和解に落ち着いた。

謎めいた死

 イリナ・ゴグアの回想によれば、ナジェージュダは夫の乱暴さと激昂する性格に耐えかねていたようだ。「…ナージャは夫の前で、さながら観衆に笑顔を見せながら裸足で割れたガラスの上を歩くサーカスの奇術師のように見えました。その瞳には恐怖と緊張がはっきりと表れていて、同時に、病的な笑みを見せていました。彼女は夫が次の瞬間にいったいどんな行動を取るのか、感情を爆発させるのかどうか、まったく予想できなかったのです。スターリンは乱暴極まりない恥知らずでしたから」。

 運命の口論は1932年の11月8日に起きた。10月革命の記念日を祝う席上でスターリンは妻に「おい!飲めよ!」と叫び、ナジェージュダはそれに「私は『おい!』なんかじゃないわ!」と答えた。

 諸々異説があり意見が分かれるところだが、スターリンはパンを妻に投げつけ、ナジェージュダは祝いの席を去ったとも、ナジェージュダは席に残り、スターリンが愛人のもとへ去ったとも言われている。

 その夜、クレムリンの自宅に戻ったナジェージュダ・アリルーエワは拳銃で自らを撃ち抜いた。銃声を聞いた者は誰もおらず、遺体が見つかったのは、家政婦がナジェージュダを起こしに来た翌朝になってのことだった。

 スヴェトラーナ・アリルーエワは後に回想録で、ナジェージュダが夫に、ほとんど政治的な内容の非難に溢れたメモを書き残したかのように記しているが、その確証はない。

 同時代人たちの証言によれば、スターリンは大きなショックを受け、自らももう生きていたくないと言ったほどで、その2年半後には親類に「なんてことをしてしまったのだ、彼女は私を「片端」にしてしまった(中略)私の一生をだいなしにしてしまった」と語ったという。

 スヴェトラーナは、スターリンは妻に対してひどく辛く当たり、彼女の自殺は裏切りだと考え、追悼祈祷の際には棺を自分から遠ざけた、と書いている。 

 外務人民委員だったヴャチェスラフ・モロトフは追悼祈祷での出来事を否定し、スターリンは妻の死は自分のせいだと自らを責めていたと証言している。「スターリンは、葬送の前の別れの瞬間に棺に歩み寄り、その目には涙を浮かべていた。そして悲痛の面持ちで声を絞り出し『守ってやれなかった』と。私はこのスターリンの言葉をはっきりと聞き、今でも覚えている」。モロトフはまた、これがスターリンの涙を見た最初で最後だったと語っている。

 新聞には、ナジェージュダ・アリルーエワは虫垂炎で亡くなったと発表された。真実を隠したことは、ナジェージュダは絶対的な権力を持つ夫の命で殺されたという噂を生み出したが、同時代人も、歴史家も一つの点ではみな一致している。彼女は自殺したのだ。

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