ペテルブルクが再三改名された訳は

モイカ川、サンクトペテルブルク。19世紀、リトグラフ

モイカ川、サンクトペテルブルク。19世紀、リトグラフ

=Serge Lachinov
 サンクトペテルブルクの名称は、公式にはこれまで三度変わっており、通称となるとたくさんある。「ピーテル」という通り名は、建都後すぐに現れ、「北方のパルミラ」は、初めは、都市そのものではなく、当時、国を治めていた女帝に奉られたものだった。これら以外の名前と通称の由来、運命も、これに劣らず面白い。

サンクト・ピーテルブールフСанкт-Питербурх

 1703年5月16日(グレゴリオ暦27日)、ザーヤチー島(兎島)に要塞が建設されたが、伝説の伝えるところとは異なり、この日直ちに正式名称が与えられたわけではない。歴史的資料によると、ツァーリのピョートル1世は、要塞竣工に立ち会ったわけではなかった。ようやく、6月29日、「聖ペテロの日」に、当地に教会を起工したときに、要塞もまた、ピョートル1世の守護聖人の名を冠せられたのだった。

ピョートル1世、アレクセイ・アントロポーフ画ピョートル1世、アレクセイ・アントロポーフ画

 6月30日、ツァーリは、ある大貴族から受け取った手紙にこんな注記を書き込んだ。「サンクト・ペーテルブールフ(Санкт-Петербурх)の郵便より受け取る」。翌日も、彼は自筆で「サンクト・ピーテルブールフ(Санкт-Питербурх)より」と書いた。7月7日には、「ピーテルブルグ(Питербург)の新要塞より」と記している。

«е»、«и (i)»、«х (kh)»、«г (g)»などが混在して使われる状態は、それから10年以上も続いた。ピョートル1世自身はというと、オランダ風に「サンクト・ピーテルブールフ(Санкт-Питербурх)」と表記することがいちばん多く、これが新たな都市の名と考えられるようになった。このほか、彼は再三、「パラディズ(Парадиз)」とも呼んでいる。

 

ピーテル

 非公式な通称でいちばん人口に膾炙しているのがこれで、この都市の建設が始まって間もなく、「サンクト・ピーテルブールフ(Санкт-Питер-Бурх)」の短縮形として現れている。文書で初めて使われたのは、劇作家デニース・フォンヴィージンの喜劇『親がかり(未成年)』(1764年)であった。

 もっとも、この名は、庶民の使う俗語とされており、実際、この街を建設した労働者が用い始めたものだった。しかし、18世紀には既に、文学作品(例えば、アレクサンドル・ラジーシチェフの『ペテルブルクからモスクワへの旅』)、書簡、回想録などでも使用されている。

 19世紀初めには、民衆の歌にも使われているのが記録に残っている。1924年には、この都市はレニングラードと名が改められたが、「ピーテル」は消えはしなかった。あの独裁者ヨシフ・スターリンさえ使っている。

サンクトペテルブルクのトロイツキー橋、ポストカードサンクトペテルブルクのトロイツキー橋、ポストカード

ペトロポーリ(Петрополь

 ギリシャ風のバージョンも、都市の着工当時から存在している。1703年7月16日、ピョートル1世の側近、ガヴリイル・ゴロフキンはこう書いている(ゴロフキンは後にカンツレルとなる。これは文官の最高位で主に外交全般を担った。現在の外相に相当する――編集部注)。「新たに建設されているこの都市は、聖ペテロの日に、ペトロポーリと命名された。すでに都市の半ばは建設されている」。このギリシャ風の名は、古代の風俗、文物が流行ったのを背景に、詩歌に定着した。

 

「北方のパルミラ」(Северная Пальмира

 ユネスコ世界遺産の古代都市、パルミラは、シリアの砂漠のオアシスにある。その最盛期は、3世紀の威厳に満ちた、誇り高き女王、ゼノビア・セプティミウスの名と結びついている。彼女は、ローマ帝国を向こうに回し、パルミラ王国の独立を宣言した。744年、パルミラはアラブ人によりついに廃墟と化し、そこに小さな集落が形成されて、現代に及んでいた。しかし、ロシアで禁止されているイスラム国(IS)に占拠されてからというもの、この古代都市の遺跡は甚大な被害を被った。

ワシリー島とペトロパヴロフスク要塞=エルミタージュ美術館ワシリー島とペトロパヴロフスク要塞=エルミタージュ美術館 サンクトペテルブルクの通称として 「北方のパルミラ」の名が現れたのは、エカテリーナ二世の治世以降のことだ。1750~1751年、イギリス人、ジェイムス・ドーキンズとロバート・ウッドが、忘れ去られていたパルミラの廃墟の調査を初めて行い、1753年にウッドは、著書『パルミラの廃墟』を上梓。エカテリーナ二世にも献呈したのだが、その際、「エカテリーナ2世女帝陛下、北方のパルミラのゼノビアへ」という献辞が書かれてあった。このイメージは定着し、寒冷なペテルブルクが「北方のパルミラ」となったのである(パルミラは、パルマ〈ギリシャ語でナツメヤシ〉の都市という意味)。

 

ペトログラード(Петроград

 サンクトペテルブルクが、初めて公式に改名されたのは、ロシアが第一次世界大戦に参戦して一か月後のことだった。愛国心の高揚と反ドイツ気分の高まりが背景にあった。

 奇妙に思われるかもしれないが、都市改称を肯定ニコライ2世に正式に請願したのは、首都に住むチェコ人たちであった。「今や、18世紀および19世紀初頭に、ロシア各界の活動家および思想家たちの多くが、我らが首都のドイツ風の名に違和感を覚え、再三にわたり改名の発意を示したことを想起するのは、まことに時宜を得たことと考えます」。1914年8月31日、皇帝の勅令により、首都は改名された。

カザン聖堂カザン聖堂

レニングラード(Ленинград

  1924年1月26日、レーニンが死去して数日の後、労働者、農民、赤軍のペトログラード・ソビエトは、首都改名に関する請願書を起草。それは、「(レーニンの)死を悼む労働者の請願により云々」というものだった(実は、改名を思いついたのは、ペトログラード・ソビエト議長だったグリゴリー・ジノヴィエフだったのだが)。さらにその3日後、ミハイル・カリーニン(当時、ソビエト連邦中央執行委員会議長で、後に国家元首にあたる最高会議幹部会議長を務める)の指令で、ペトログラードはレニングラードとなった。

 とはいえ、ペテルブルクっ子の多くは、この新名称を長い間無視していた。作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチは、今やサンクト・レニンブルク(Санкт-Ленинбург)に住んでるってわけさ、と冗談を飛ばした。この“雑種”のレニンブルクとともに、この街の“フォークロア”には、「ペトロレン(Петролен)」などというのも現れた。歳月が経っても、改名をめぐるジョークは消えず、例えば、こんな小話が流行った。

 「世界最高の3つの都市はどこ?」

 「ペテルブルク、ペトログラード、レニングラードさ」

 

サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург

 1989年に、街に歴史的名称を戻そうと、政治運動「ルースコエ・ズナーミャ(ロシアの旗)」が呼びかけた。1991年6月12日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国大統領の初の選挙が行われるのと同時に、住民投票を実施。「あなたは、あなたの都市の名称を、本来のサンクトペテルブルクに戻すことを望みますか?」と問うものだった。結果は、投票率は64 %で、改称賛成は54 %、反対は42 %であった。この結果を受け、9月6日に都市は再びサンクトペテルブルクとなった。

 しかし、この結果に不満な人たちは再三、レニングラードに戻そうと提案している。もっとも、このソ連時代の名は、例えば、「英雄都市レニングラード」といった形では残っている。というのは、大祖国戦争(独ソ戦)およびレニングラード包囲戦と関連するあらゆる記念行事で、この名を用いることが正式に許可されたからだ。

 

アルザマス誌の記事を抄訳 

もっと読む:サンクト目抜き通りの穴場5選>>