第二次大戦末期、在モスクワ米国大使館はソ連の読者にアメリカの生活を紹介する雑誌を創刊すべく当局に働きかけていた。1945年にソ連外務省の許可が下りると、間もなく雑誌の初号が発行された。
雑誌「アメリカ」の創刊号に寄せられた編集者による序文には、出版目的と編集方針が次のように述べられている。
「この雑誌は(中略)アメリカの人々について語るものだ。アメリカ人がどのように暮らし、働き、楽しんでいるのか。彼らの気分や望み、心配事や憧れの対象、そして休息のひとときや余暇に至るまで、それらすべてを紙面に捉えようと思う(中略)。
アメリカの人々がどんなことを考え、何をしているのか、どんなものを読み、何について話しているのかを紹介しよう。雑誌「アメリカ」の今号、そしてそれに続く号でも、読者のみなさんは何百万人というアメリカ人に読まれている最も人気のある雑誌からの多くの再録記事を目にすることになるだろう。」
インターネットもなく、ハリウッドやその他のアメリカのポップカルチャーに触れる機会もない時代、この雑誌は鉄のカーテンの向こう側を垣間見ることのできる唯一の手段だった。もちろんそれは貴重なこの雑誌を手に取ることのできたソ連市民にとってだが。
しかし、当初からソ連当局はアメリカが主導する雑誌に懐疑的な態度を取っており、雑誌の目的は、アメリカの伝統と社会制度のほか、第二次大戦におけるその役割と重要性を伝えること以外にはないと主張した。
確かに、雑誌で描かれるアメリカの暮らしは、ソ連市民が経験しているそれとはショッキングなほど対照的だった。
雑誌はみごとに資本主義世界におけるモノと機会の豊かさを宣伝していた。たとえば、雑誌のある号のメインテーマはアメリカにおける若者の雇用についてだった。
「スタジアムで働くのは楽しいです。すべての試合が無料で見られるんですよ」という17歳のマイケル・ブルマンの言葉が紹介されている。編集者が言うには、彼は時給3.35ドルで働いているそうだ。この号で取り上げられているもう一人の10代の若者コルビー・レイノルズは牧場で働いており、バイクを買うのに十分な貯金をすることができた。当時、バイクはソ連のすべての若者たちの憧れであった。
「アメリカ」は他のアメリカの雑誌に掲載された記事を取り上げることもあった。たとえば、「アメリカ」に再録された「ベター・ホームズ・アンド・ガーデンズ」の記事はソ連の家庭にショックを与えたはずだ。ソ連では聞いたこともないような豪華なインテリアを特集していたのだから。
雑誌「アメリカ」はその写真記事でも有名だ。アメリカの暮らしのあらゆる面をカメラに収め、ソ連市民にアメリカの町はどのようなものなのかについて知る貴重な機会を提供した。
全体的に見れば、雑誌では主として人々についての記事が取り上げられた。一つ一つのトピックは普通のアメリカ人の眼を通して紹介されており、10代の若者や大学生、また労働者に農家、政治家など多様な職業、そして田舎から大都市までさまざまな町の住民、といった具合だ。
雑誌の編集委員会はイラストの効果に着目していた。優れた写真記事が掲載され、雑誌を読んだソ連の人々に大きな衝撃を与えた。
時とともに雑誌の発行部数は1万部から5万部に伸びた。同盟国というアメリカの立場が、非常に厳しい検閲のなかにいるソ連の読者層にとって唯一のアメリカ社会への窓口である雑誌を保護し、そして拡大することを可能にした。
冷戦が始まるとソ連政府は二つの案を検討した。雑誌の発行を完全に禁止するか、または各号80%発行部数をカットし、ソ連出版部門の損失を国家予算で補填する、というものだ。
1952年、当局から受ける抑圧に抗議して、アメリカはソ連での雑誌の発行を停止した。
しかし1965年、アメリカはソ連での雑誌の販売を再開した。米ソ両政府は各号3万部の制限付きでニ国間での雑誌の発行を許可するという合意に達したからだ。
それにもかかわらず、ソ連当局は雑誌の影響を抑えようとカウンタープロパガンダを始めた。アメリカの雑誌に登場する人々や物語に徹底して反論し、「アメリカの生活スタイル」を厳しく非難したのだ。
ミハイル・ゴルバチョフがペレストロイカ政策を進めた1980年代後半、ソ連における雑誌「アメリカ」発行に関する規制はすべて解かれ、キオスクで自由に販売されるようになった。
雑誌はソ連崩壊から3年後の1994年まで出版を続けたが、経済的困難により廃刊を余儀なくされた。
現在、ロシアで雑誌「アメリカ」の限定集が約300ドルで手に入る。