ロシア皇帝の一風変わった(奇妙な)コイン9つ(写真特集)

歴史
アンナ・ポポワ
 ルーシの最初のコインは10世紀末、ウラジーミル・スヴャトスラヴィチの統治時代に作られた。表には「ウラジーミルの銀」という説明が書かれていた。以来、ほぼ統治者が変わるごとに、貨幣が鋳造された。コインは支払いのためだけに使われたのではなく、褒賞としての意味を持つものでもあった。

1. 四角いルーブル

 貨幣の鋳造はお金のかかる事業であった。ピョートル1世は、このことを自身の経験を持って知ることとなった。ピョートル1世の時代に、金属を手で押して潰したような簡素な硬貨から、機械で製造された丸いコインが誕生した。当時は銀が不足していたが、ウラルの青銅は十分にあった。コインの改革を実現させたのはピョートル1世の妻のエカテリーナ1世である。1726年から1727年にかけて、エカテリンブルクの精錬工場で、刻印入りの薄い板状の硬貨が製造された。しかしこれは特に見た目が美しいというものでもなかった。四角い板の四隅にロシアの国章と額面、そして中央に、どこでいつ鋳造されたかが記されていた。まず低額のコペイカから高額のルーブルまでのコインが鋳造された。コインは大きければ大きいほど、より重かった。たとえば、コペイカは16グラム強であったが、青銅のルーブルは手のひらほどの大きさで、その重さは実に1.6キロを超えていた。 

2. セストロレツキーのルーブル

 セストロレツキーのルーブルは釘を打ち込むことができる重量930グラムの巨大なコインであった。当時、普通の5ルーブルコインは50グラムであった。ホッケーのパックを小さくしたような青銅のルーブルは最初のロシアの紙幣と交換できるものであった。いずれにせよ、1771年になると、セストロレツキー武器工場で試作品が作られるようになった。しかし、その試みはうまくいかなかった。結局、お金は流通されなかったのである。

3. プラチナのコイン

 シベリアでプラチナが採掘されるようになった数年後、そのプラチナで硬貨を鋳造することが決定された。額面3ルーブル、6ルーブル、12ルーブルのコインは、世界で初めてのプラチナ製のコインであった。このコインは1828年から1845年にかけて製造され、この間、採掘された3万2000キロのプラチナのうちの半分が貨幣の鋳造に使われた。この「贅沢なコイン」は、銀貨や金貨とともに長いこと使われるものと思われたが、突然、鋳造は停止された。その理由については、高価なこの貴金属の価値がまもなく下がることが懸念されたからだという説がある。プラチナの備蓄はすべて英国に販売され、プラチナのコインは以来、作られなくなった。

4. 同等でない支払いのためのコイン

 ロシア最後の皇帝の時代、通貨改革が行われ、ルーブルは金の価値と結び付けられた。そこで、一般的な価値のコインに加えて、7.5ルーブルなどというちょっと変わった金額のコインが流通するようになった。しかし、造幣局は、より重要な貨幣を鋳造する必要に迫られた。たとえば、37.5ルーブル金貨などである。

 1902年に鋳造されたニコライ2世の横顔とロシアの国章が入ったコインはルーブルとフランスのフランの2つの価値を持つものであった。というのも、これは外国での支払いを目的に作られたものだったからである。900枚の金貨は政府の記念品として作られた可能性も除外できない。この一風変わったコインは主に皇帝一家が所有するものとなった。

5. ルーブルの代わりのルース

 セルゲイ・ウィッテ財務相は、再び金のルーブルを作り、国際市場の価値にまで高めると決定した。そしてその名称は、いくつかの候補の中から、フランス風の「ルース」にするとした。この新しい硬貨は、そこに書かれている額面以外では、見た目は古いものと変わらなかった。たとえば、15ルーブルではなく15ルースと記されていたのである。

 皇帝の10ルーブル金貨の2/3の価値を持つのが10ルースであった。ニコライ2世は試作品を詳しくチェックしたが、このアイデアには関心を示さなかった。結局、ルーブルの流通が続けられ、新たな通貨はプロジェクトのままで終わった。

6. シベリアの貨幣

 新たな領土の獲得は大きな問題をもたらした。それは、遠く離れた地域に首都サンクトペテルブルクで鋳造したお金を運ばなければならないというもので、それにはお金がかかったのである。そこで、その地域でコインを鋳造するということが決められた。シベリアの貨幣は1766年から、豊富な備蓄があった青銅のコインが、地元のスズンスク工場で鋳造されるようになった。もっとも、ここで鋳造されたコインはその地域、つまりタラからカムチャツカまでの範囲でしか流通しなかった。もっとも額面の小さい0.5ルーブルのコイン以外のほぼすべての硬貨は裏にシベリア県の紋章が入っていた。

7. 肖像画のないコイン

 パヴェル1世は、多額の対外債務と高まるインフレの問題を簡単に解決した。紙幣の備蓄を廃棄し、硬貨の量を増やしたのである。ありとあらゆる方法で資源の採掘を進め、宮廷の銀製食器までもが再溶解にまわされた。パヴェル1世の時代に、初めて皇帝の肖像画のないコインが鋳造されるようになった。その代わりにコインには、「П」(パヴェルの頭文字ペー)を4つ組み合わせたモノグラムと中央にローマ数字の1が描かれた。裏には、詩篇の言葉「わたしたちではなく、あなたの名において」という言葉が刻まれた。ちなみに、一般的なルーブルや半ルーブルだけでなく、試作品もこのような形をしていた。この銀貨は1.5ルーブルの価値を持っていた。

8. コンスタンチンのルーブル

 不思議なことに、ロシアにはコンスタンチン1世の統治時代というものは存在しないのだが、彼の肖像画が入ったコインは存在する。実際には単純な理由であった。子供のいなかったアレクサンドル1世の死後、皇帝の座にはパヴェル1世の息子が就くはずであったのだが、彼が皇帝になることを断固として拒んだため、玉座は弟のニコライ・パヴロヴィチ大公に譲られることになった。アレクサンドル1世が亡くなる数年前に、彼の権利を承認する秘密の文書が作成された。しかし、この文書について知っている人は少なかったため、ペテルブルクの鋳造所では、戴冠式を待たずに新たな貨幣の鋳造が始まったのである。最終的にいくつかだけを残して、ほぼすべての貨幣が廃棄された。

9. メダルとしての金貨

 金は皇帝の金属であるという諺は完全に正しいものである。戴冠式が終わるとすぐに、皇帝たちには高価なコインが手渡された。装飾に使われることもあれば、贈り物として渡されることもあった。また軍における功績に対しても、コインが与えられた。18世紀になって、このコインは、メダルや勲章に代わるものとなった。たとえば、1689年にロシア帝国と中国との国境を定めたネルチンスク条約を結んだフョードル・ゴロヴィンにも金貨が与えられた。

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