ソ連崩壊から間もなく30年:その5つの主な結果と影響は?

1991年8月19日、モスクワの赤の広場に止まる戦車

1991年8月19日、モスクワの赤の広場に止まる戦車

Aleksandr Chumichev/TASS
 ソ連が1991年に解体したとき、「地政学的カタストロフ」と認識した者もいれば、新しいより良い時代の始まりととらえた者もいた。しかし、ソ連崩壊が何千万もの人々の生活を一変させた点では、誰も異論がない。

1. 冷戦の終結 

 ソ連崩壊の事実は、元ソ連国民だけでなく、世界の遥か彼方の人々にもまざまざと感じられた。 2つの超大国のうちの1つが、世界の政治地図から突然姿を消し、資本主義と社会主義の両陣営の立役者の1人が、忽然と消え去ったわけだった。

 この時、多くの人は安堵のため息をついた。絶え間ない対立、代理戦争、軍拡競争、そして核兵器使用をともなう新たな世界大戦への予感…。これらのせいで、世界各地――主にアメリカ、ヨーロッパ、ソ連――の人々は、長年にわたり緊張状態にあった。しかし1991年に、二極構造の世界は過去のものとなり、米国は唯一の超大国になった。

 しかし、これは誰にとっても良いニュースというわけではなかった。1990年代初頭に、この国(連邦解体後に独立したロシア)が超大国の地位を失い、国際的な影響力の多くを失ったことを好まない人もいた。

 また、第三世界の数十か国が、ソ連の支援なしにとり残され、新たな世界で自らの居場所を探すことを余儀なくされた。それは彼らにとって困難な課題だった。

 

2. 市場経済への移行

 ソ連では、様々な投機のために逮捕、投獄される可能性があった。しかし、1991年以降は、お金を稼ぐために商品を買い、転売することは、何百万もの人々のビジネスになった。彼らは、未知の市場経済でサバイバル術を学んでいく。

 だが、元ソ連国民のすべてに、経済の自由化が気に入ったわけではない。急激なインフレにより何百万、何千万もの人々が貯蓄を失い、食料や商品の価格は一気に数十倍にハネ上がった。犯罪と失業が急増し、給料の遅配も、例外的ケースどころか、日常茶飯事となった。

 こういう問題はあったものの、価格の自由化は、1990年代初めのソ連で深刻だった一般消費財不足の問題を政府が解決するのに役立ちはした。店頭には商品があふれた。その多くは外国製で、ついこの間まで考えられなかったようなものだった。

 欧米の企業は、旧ソ連圏での新市場の開拓を急いだ。コカ・コーラ、マクドナルド、IKEAなどの有名ブランドがロシアに現地法人、オフィスを開設した。

 経済自由化で最も物議を醸したことがらの1つが、国有財産の民営化だ。ソ連の旧国有企業をより効率的にするために目論まれた改革だったはずだが、ロシア内に新興財閥(オリガルヒ)と経済格差、階層を生み出した。 

 

3. 「鉄のカーテン」の消失

 何千万ものソ連国民にとってこの国を離れることは見果てぬ夢だった。外国旅行をするには、当局の正式な許可を得る必要があり、何年も空しく待たねばならないこともあった。

 1970年代には、この問題は非常に深刻化していた。国から出国ビザ発給を拒否された人々を指す新しい用語も登場。こういう人たちは、「オトカズニク(断られた人たち)」と呼ばれるようになった。やけになった人がソ連から脱出するために飛行機をハイジャックしようとした場合さえあった。

 ソ連崩壊にともない、ソ連国民を世界の他の地域から分断してきた、いわゆる「鉄のカーテン」も消失した。数百万人の人々が単に外国に旅行するだけでなく、移住する機会を得た。

 一方、資本主義国の人々も、観光客やビジネスパーソン、投資家などとして旧ソ連圏に来られるようになった。欧米の一部有名人もやって来た

 

4. ソ連国民の分断

1991年1月、リガで起きた敵対

 「彼らはある国で眠りに落ち、別の国で目が覚めた」。ソ連国民についてよくこう言われる。彼らは、いきなり一夜にして、かつてはソ連の一部だったが、今や別々の、さまざまな国に住むことになった。かつては相対的なものでしかなかった国境が、国を隔てる厳然たるものとなり、多くの家族が分散することになった。

 何千万人ものロシア人が、自分たちが主要な民族ではない国の国民になった。新しい国に自分の居場所を見出した人も多かったが、それでも、旧ソ連国民とその子孫にとって、歴史的な故郷への帰還は、ソ連崩壊から30年経った今でも、依然として深刻な問題だ。

 

5. 言論の自由

 ソ連時代には、反ソ的宣伝、プロパガンダのせいで、ある時期には強制収容所送りとなり、またある時期には命を失う可能性があった。軽いジョークや小話でも、「時と場所を弁えないと」告発されたケースが多数知られている。

 たとえば、ポポーヴィチという名の水道技術者が、1948年に、次のような小話(アネクドート)で 、懲役10年の判決を受けた周知の事例がある。

 「ある老婆が初めてラクダを目にした。彼女は突然、涙を流して言った。『可哀想な馬だ!ソビエト政権はお前に対して何てひどいことをしたんだろうね!」

 ソ連で禁じられた書籍を持っていたり(たとえ、ごく罪のないようなものでも)、政治エリートを客観的に評したりするだけでも、投獄されかねなかった。

 そして、ソビエト政権に嫌われた詩人・作家(ヨシフ・ブロツキー、アレクサンドル・ソルジェニーツィンなど)や、他の分野の著名人(反体制派の物理学者アンドレイ・サハロフ、世界的チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、その妻の名ソプラノ・ガリーナ・ヴィシネフスカヤ等々)は、迫害され、国外追放になった。

 ソ連末期のペレストロイカ期に、グラスノスチ(情報公開)が始まり、ソ連崩壊後に、旧ソ連圏で言論の自由が認められるようになった。国の検閲は廃止され(廃止が一時的だった国もあるが)、独立メディアも登場した。

 ソ連時代の生活と比べれば、今や旧ソ連国民は、あらゆる種類の情報に事実上無制限にアクセスでき、芸術家は、国家からの報復を恐れずに創作できると言える。

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