ロシアには「軍の栄光の日」がいくつあるか

Kira Lisitskaya, Sergei Eisenstein/Mosfilm,1938, Ivan Aivazovsky, Yevgeny Khaldei/Sputnik
 ロシア陸海軍の勝利は幾度となくロシア史の転換点となり、国を破滅から救ってきた。こうした勝利を記念した「軍の栄光の日」がいくつか定められている。

ファシスト包囲からのレニングラード完全解放の日(1月27日)

 1944年1月~3月のレニングラード・ノヴゴロド作戦で、赤軍は北方軍集団をレニングラードから180~280キロメートル離れたところまで押し返し、彼らをエストニア国境のパンター線から動けなくした。872日間続いて150万人が命を落としたソ連第二の都市の封鎖は、こうして完全に解除された。

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スターリングラードの戦いにおけるソビエト軍の対ドイツ・ファシスト軍勝利の日(2月2日)

 1942年11月23日、赤軍はウラヌス作戦でスターリングラードに籠るドイツ第6軍を包囲した。翌年1月26日、ドン川戦線の軍が第6軍を2つの集団に引き裂き、それぞれを粉砕した。これが第二次世界大戦の戦局の劇的な転換点となった。

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祖国防衛者の日(2月23日)

 祖国防衛者の日は、次の一連の出来事を記念して2月23日に祝われている。つまり、1918年1月28日の労農赤軍設立の布告と同年2月11日の労農赤色海軍設立の布告の採択、そして設立間もない赤軍部隊による、プスコフとナルヴァ近郊でのドイツ軍に対する2月の揺るぎない抵抗戦である。

チュード湖における公アレクサンドル・ネフスキー率いるロシア軍の対ドイツ騎士団勝利の日(4月18日)

 1242年4月5日(記念日は4月18日)、チュード湖でノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーがドイツのリヴォニア騎士団とドルパト司教の軍を破った。この「氷上の戦い」は、13世紀半ばのドイツの北東ルーシへの領土拡張に対する抵抗に大きく貢献した。ルーシ諸公国がモンゴル軍による破壊的な侵略を受けた時代、この出来事はとりわけ重要だった。

ソビエト人民による1941年~1945年の大祖国戦争勝利の日(5月9日)

 1945年8日から9日にかけての夜、ベルリン近郊カールスホルストでドイツ軍の無条件降伏文書が調印された。これにより、2700万人のソ連人が犠牲となった大祖国戦争(独ソ戦)が終結した。

チェスマの戦いにおけるロシア海軍の対トルコ軍勝利の日(7月7日)

 1768年~1774年の露土戦争の最中の1770年7月7日、ロシア海軍がその歴史上最大の勝利の一つを収めた。チェスマ湾の海戦でオスマン艦隊の大部分を撃破したのだ。トルコ軍は15隻の戦艦、6隻のフリゲート艦、多くの小型艇を失った。さらに15000人の水兵のうち11000人が戦死した。ロシアは露土戦争における勝利に向けて大きく前進した。

ポルタヴァの戦いにおけるピョートル1世率いるロシア軍の対スウェーデン軍勝利の日(7月10日)

 1700年〜1721年の北方戦争でのスウェーデンに対する勝利により、ロシアは初めて欧州列強の仲間入りを果たした。勝利の鍵となったのが、1709年7月8日(記念日は7月10日)のポルタヴァの戦いだった。敗北後、カール12世の王立軍はほとんど全員が捕虜となり、王自身はオスマン・トルコのスルタンを頼って逃亡した。

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ハンゲ岬沖におけるピョートル1世率いるロシア海軍によるスウェーデン海軍に対するロシア初の海戦勝利の日(8月9日)

 スウェーデンに対する陸上での勝利だけでは足らず、海上でもこの国を打ち砕く必要があった。1714年8月7日(記念日は8月9日)、ハンゲ岬(ハンゲ半島)沖で、ロシアの正規海軍(当時は手漕ぎ)がその歴史上初めて勝利をつかんだ。ポルタヴァの戦いの時と同じく、この海戦を勝利に導いたのはピョートル1世だった。

クルスクの戦いにおけるソビエト軍の対ドイツ・ファシスト軍勝利の日(8月23日)

 スターリングラードの戦いは第二次世界大戦の戦局の転換点だったが、クルスクの戦いは戦局の転換をさらに確かなものにした。1943年夏、クルスク突出部でドイツ軍の猛攻に耐え、赤軍は全戦線で総攻撃に転じ、以来終戦まで戦略的な主導権を手放さなかった。

第二次世界大戦終戦の日(9月3日)

 1945年9月2日、米国の戦艦ミズーリで日本の降伏文書が調印され、第二次世界大戦が終結した。同年ソ連最高会議は9月3日を対日戦勝記念日とした。2020年、「ロシアの軍の栄光の日と記念日について」の法律に変更が加えられ、9月3日は第二次世界大戦終戦の日と定められた。

ボロジノにおけるM・I・クトゥゾフ率いるロシア軍の対フランス軍勝利の日(9月8日)

 「ボロジノの戦いは最も素晴らしく、最も恐ろしかった。フランス軍は勝利に相応しい活躍をし、ロシア軍は負けざるに相応しかった」とナポレオン・ボナパルトは1812年9月7日(記念日自体は9月8日)にモスクワ郊外のボロジノ村で行われた戦いについて語っている。フランス皇帝は思い通りにロシア軍を破ることができず、このことが彼のロシア遠征の結果に大きく影響した。 

テンドラ岬沖におけるF・F・ウシャコフ率いるロシア艦隊の対トルコ艦隊勝利の日(9月11日)

 1790年9月8日~9日にテンドラ岬沖で行われた海戦(記念日は9月11日)で、ロシア海軍は、ロシア側に戦力で勝るトルコ海軍に勝利した。この海上での勝利は、地上での勝利とともに、1787年~1791年の露土戦争におけるロシアの勝利を確実にし、黒海北岸とコーカサス、バルカン半島におけるロシアの影響力の伸張に貢献した。

クリコヴォの戦いにおける大公ドミトリー・ドンスコイ率いるロシア連隊の対モンゴル・タタール軍勝利の日(9月21日)

 1380年9月8日(記念日は9月21日)、モスクワ公ドミトリー・イワノヴィチはクリコヴォの戦いで当時キプチャク・ハン国政権の頂点にいたテムニク(軍司令官)、ママイが率いる軍を破った。この勝利はルーシにおけるモンゴルの立ち位置を大きく揺るがし、荒廃したルーシの統一の中心地としてのモスクワの役割を強めた。ただしハン政権によるルーシ支配はそれからさらに一世紀にわたって続いた。

コーカサスの戦いにおけるソビエト軍の対ドイツ・ファシスト軍勝利の日(10月9日)

 コーカサスは1942年のドイツ軍司令部の戦略において重要な役割を果たしていた。その産油地帯を奪えば、ドイツはソ連に大打撃を与えられるからだ。しかし赤軍はドイツ・ルーマニア連合軍の侵攻に耐え、敵をこの地域から追い出すことに成功した。1943年10月9日、ソビエト軍第56軍がタマン半島とクリミア半島の間のケルチ海峡方面に出たことで、コーカサスの戦いは終わった。 

民族統一の日(ニジニー・ノヴゴロドの長クジマ・ミーニンと公ドミトリー・ポジャルスキー率いる義勇軍によるキタイ・ゴロド奪還の記念日)(11月4日)

 ロシア国家が深刻な政治的・経済的危機にあった動乱時代、貴族の一部がポーランド王子ヴワディスワフをツァーリと認めることに賛同し、モスクワにポーランド=リトアニアの警備隊を招き入れた。そこで公ドミトリー・ポジャルスキーと商人クジマ・ミーニンが率いる義勇軍が外国勢力に対して立ち上がり、干渉軍を破って首都を解放した。ロシアでは11月4日は単なる軍の栄光の日ではなく、「民族統一の日」という祝日になっている。

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モスクワの赤の広場における十月社会主義革命24周年記念軍事パレード実施の日(11月7日)

 1941年11月7日、ドイツ軍がソ連の首都に迫ったモスクワの戦いの最中、赤軍は革命24周年を記念して盛大なパレードを行った。しかもその大部分がそのまま前線へ向かっていった。このパレードは、ドイツのプロパガンダに反してソ連がまだ屈しておらず、最後まで戦い抜くことを世界に示した。

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シノープ岬沖におけるP・S・ナヒーモフ率いるロシア艦隊の対トルコ艦隊勝利の日(12月1日)

 1853年~1856年のクリミア戦争の最中の1853年11月30日(記念日は12月1日)、シノープ湾でロシア海軍はオスマン帝国艦隊を完膚なきまでに打ち砕いた。帆船艦隊対戦史におけるロシア軍の輝かしい勝利は英国とフランスを驚かせ、両国がトルコ側に付いて参戦するきっかけとなった。同盟した列強を前に、ロシアは結局戦争に敗れた。 

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モスクワ郊外の戦いにおけるソビエト軍の対ドイツ・ファシスト軍反撃開始の日(12月5日)

 1941年10月から11月の間、ソ連の首都の近くで激しい戦闘が行われ、赤軍は死力を尽くしてモスクワを守っていた。敵を疲弊させ、新たな補給を得たソビエト軍は、1941年12月5日に全面的な反撃に転じ、驚いた敵を首都から数百キロメートル離れたところまで押し返した。第二次世界大戦中、ドイツ国防軍は未だこれほど壊滅的な敗北を喫したことがなかった。

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A・V・スヴォーロフ率いるロシア軍によるイズマイール要塞攻略の日(12月24日)

 「このような要塞を急襲することは、一生に一度しか決心が付かないかもしれない」とロシア史上最高の司令官、アレクサンドル・スヴォーロフはトルコのイズマイール要塞の攻略について話している。攻撃の前、司令官はこの要塞の堀や土塁、城壁とそっくり同じものを作らせ、軍に常に訓練を積ませていた。1790年12月22日(記念日は12月24日)、ロシア軍は2000人の兵士を失いながらも、難攻不落と考えられていた要塞を攻略した。一方でトルコ軍警備隊の損害は2万6000人を上回った。

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