=A.キフシェンコ「ポルタヴァの戦いの勝ち」、1887年
徹底した焦土作戦を展開
1707年8月、軍事的天才をうたわれたカール12世率いるスウェーデン軍4万5千は、ザクセンからロシアに向かったが、ピョートル大帝は徹底した焦土作戦の準備をしていた。
「敵を複数の部隊による攻撃で脅かし、食糧を奪い、渡河を困難ならしめ、絶えざる攻撃で疲弊させよ」(1707年5月の軍事会議でのピョートルの指令)。
作戦は功を奏し、スウェーデン軍は食糧など補給物資の欠乏と悪天候、パルチザン的な攻撃に苦しんだ。しかも、馬車5千台で補給物資を運ぶ別働隊が、ピョートル自ら率いる部隊の攻撃で、ほとんどの物資を奪われてしまう。
ヒトラー思わせる南進
ここで、カールは、200年後のヒトラーを思わせる転進を行う。別働隊の残兵をまとめて南ウクライナに向うのである。
これはウクライナの首領マゼッパが密かにカールに通じていたためでもあるが、転進は裏目に出た。
スウェーデン軍はウクライナでも、絶えず露軍や住民の攻撃にさらされながら、1708から1709年にかけて同地で越冬する羽目になる。おまけにこの冬はとくに寒く、スウェーデン軍は磨耗していく。
18世紀のスターリングラード攻防戦
1709年4月、カールはポルタヴァ要塞を包囲し、攻撃を開始する。
だが、要塞の守備隊が持ちこたえている間に、ピョートル率いる大軍がやって来る。兵力4万2千(砲102門)。対するスウェーデン軍は今や兵力3万、砲40門以下になっていた。
しかもカールは、要塞の攻囲戦で、狙撃兵に撃たれて足を負傷し、指揮をレーンスケルド将軍に委譲していた。
カールは、本来の戦略目標から逸脱し、補給もままならない状態でロシア奥地に迷い込んでしまったが、この時点で、すでにほぼ勝負あったといえるだろう。この点と、戦争全体のターニングポイントになったという点で、ポルタヴァの戦いにはスターリングラード攻防戦を思わせるものがある。
熟慮と果断
ピョートルは、優勢な兵力で逆に敵軍を包囲する。しかもそのうえ、10個の堡塁を築き、万全の野戦陣地を構築して、敵軍の攻撃を待ち構えた。劣勢の敵軍が突撃してくるところに砲火を集中し、算を乱したら一気に襲いかかり壊滅させようとの作戦だ。
スウェーデン軍は果敢に突撃するが、一部隊が塹壕にはまり込み、砲火をもろに浴びせられて降伏してしまう。
ここでピョートルは総攻撃を命ずる。歩兵が陣地から出て突撃し、騎兵も両翼から敵軍に殺到。やがてスウェーデン軍は潰走を始める。
追撃を受けてスウェーデン軍はほぼ全軍が死傷、もしくは捕虜となった。カールとマゼッパはわずかな残兵に守られてトルコに逃れる。
ポルタヴァの戦いとそれに先立つ焦土作戦は、ほぼ100年後の祖国戦争で活かされることになるだろう。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。