クリコヴォの戦い
Sergei Kirillov / Wikipediaウグラ河畔の戦いは、戦闘そのものは行われず、何とも奇妙な戦いだった。もっとも、双方それぞれ数万の将兵が加わってはいた。この戦いは、同時代人たちにも既に、奇妙で神秘的に思われたようで、彼らはそこに、神慮のたまもの、すなわち、聖母マリアのとりなしを見た。
ロシアでは、この戦いは、「ウグラ河畔の対峙」と呼ばれる。すなわち、ウグラ川を挟んで、モスクワ大公国のイワン3世と、キプチャク・ハン国の正嫡をもって任じる「大オルダ」の君主アフマド・ハンが、それぞれ大軍を擁して対峙した。伝統的にこの事件は、2世紀半にわたって続いてきた「タタールのくびき」の終わりを示す事件と受け止められてきた。
このおよそ100年前に「クリコヴォの戦い」で、イワン3世の祖先ドミトリー・ドンスコイがタタールを破った事実にもかかわらず、ロシアの諸公は、キプチャク・ハン国に再び挑戦するほど強くはなかったから、貢納を続けななければならなかった。
しかし、15世紀の間に、キプチャク・ハン国は分裂し、一方モスクワ大公国は、かつて分断されたロシアの地の盟主と認められるようになっていた。モスクワ大公国はこうした好機に乗じ、イワン3世の治下で貢納を停止する。
アフマド・ハンからの臣従要求の手紙を破り捨てるイワン3世
Aleksey Kivshenko / Wikipediaこうしたイワン3世の「不服従」は、「大オルダ」の君主アフマド・ハンを激怒させた。「大オルダ」は、モンゴル帝国の継承国家「キプチャク・ハン国」が分裂してできた、最大の「破片」である。そしてアフマド・ハンは、「キプチャク・ハン国」の正嫡を自任していた。彼は、この“反抗的な臣下”を罰することを決め、8万〜9万の大軍を集めて、モスクワに向かった。
イワン3世は、タタールの侵略を迎え撃つ準備を始めたが、その戦いの帰趨については、ますます憂慮を深めていた。敵軍の規模の大きさだけでなく、イワンの宿敵、ポーランド王・リトアニア大公のカジミェシュ4世が、アフマド・ハンと同盟関係にあることでも悩んでいたのだ。
弱り目に祟り目というべきか、ロシア北部では、リヴォニア騎士団(ドイツ騎士団のリヴォニア地域における自治的分団)が、ロシアの要塞を包囲していた。リヴォニアは、現在のラトビアの東北部からエストニアの南部にかけての地域だ。
イワン3世の側近の一部は、こうした状況で大オルダと対決することを嫌い、ツァーリにタタールと和平を結ばせようとする。イワンは躊躇していた。
一方、アフマド・ハンの軍は、ウグラ川(モスクワの南西約200キロ)に達し、首都を直接脅かしていた。イワン3世の長男イワン・マラドイ(マラドイはジュニアの意味)が率いるロシア軍は、そこでハンの大軍に遭遇。二つの軍は、川の両岸に布陣する。
カジミェシュ4世
Jan Matejko / Wikipediaカジミェシュ4世は、ハン軍への参陣を急がなかったが、それでもイワン3世は、ハンとの戦いに明るい見通しはもてなかった。彼は息子に、軍を離れ、自分がいるモスクワに戻るように命じた。モスクワでは、特別会議が開かれ、今後の対応に頭を悩ませていた。
ところが、絶対的な支配者であったツァーリには意外千万なことに、息子は敢えて命令を無視した。それによって、彼と軍にとってはただ一つの選択肢、すなわち戦いしかないことを示したのだ。
また、こうした状況にあって、モスクワの民衆も、侵略者と戦うべし!と大公に訴えたという報告がある。ツァーリの精神的な指導者であるヴァシアン大主教も、モスクワの支配者に対し、感動的な励ましの言葉を贈った。
「人は死を恐れるべきだろうか?運命は避けられない。私はすでに老いて弱々しい。だが私は、タタールの剣に怯えはしない。剣の閃光から顔を背けはしない」。こう大主教はイワンに言った。
歴史家ニコライ・ボリソフが指摘しているように、イワンが行動を拒否したとすれば、困難で不名誉な立場に陥っただろう。こうして10月初め、大公は軍に直行した。
10月6日、アフマド・ハンの軍は、せいぜい120~140メートルの幅しかない川を渡ろうと試みた。戦闘は、60キロにわたった、両軍の接触ライン全体に沿って行われた。が、渡河の試みは 4日間続けられたにもかかわらず、完全な失敗に終わった。
というのは、寄せ手のタタール軍が最初に渡河しなければならなかったわけだが、そうなると、彼らの主な強みである騎兵隊を使うことができない。渡河しようとすると、ロシア軍の大砲と火縄銃の餌食になってしまう。
しかも、ロシアの指揮官たちは、大砲と火縄銃を持つ特別部隊を編成し、渡河しやすい地点の周りに配置した。他の連隊と騎兵隊は、いつでも必要な場所に移動できるように、川沿いに配置。一方のタタール軍は、弓矢も使えなかった――この距離では十分な効果があがらないからだ。という次第で、川の中に踏み込んだタタールの部隊は、格好の餌食となった。
現代の歴史家アレクセーエフが指摘するように、アフマド・ハンは、渡河を続け、軍を温存しようとはしなかったが、結局、すべてが無駄に終わった。
対峙は10月26日まで続いた。この日、イワン3世は川から軍を引き上げ、近くの町に集中させた。川が凍ってしまい、もはや要塞の役を果たせなくなったからだ。ところが、アフマド・ハンは、11月6日までウグラ河畔に退陣し続け…それから、撤退してしまった。冬季の条件のもとで戦闘を続ける準備はなかったからだ。
アレクセーエフの指摘によれば、「冬将軍」の影響のほか、ウグラ河畔にかつてない、まったく新しいタイプのロシア軍が生まれていたのが勝因だ。アフマド・ハンは、それを考慮せざるをえなかった。ロシア軍は、強力な一元的指揮系統を持っていた。それは、昔ながらの公の軍ではなく、新しい中央集権国のそれだった。モスクワ大公国は、イワン3世の治下にそのような新国家に変貌していたのだった。
最後に、今や流行遅れかもしれないが、150年前のマルクスの指摘で終わりにする。イワン3世の治世の初期には、欧州は、リトアニアとタタールの間に挟まったモスクワ大公国のことなど、ほとんど知らなかったが、突然、東方に巨大な帝国が現れたことに気づいた――。
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