患者との間にカーテンを挟んで行われる健康診断なんて想像できるだろうか?言語道断に思えるが、17世紀の初期ロマノフ朝においては、宮殿住まいの皇室の女性は、そのような形で診断された。
医師――通常は薬事局の外国人だが――は、皇室の女性、つまりツァーリの妻、娘、姉妹などに対しては、気分や痛み、病気について尋ねることしかできなかった。皇室の女性を直に見たり、いわんやその身体を検めたりすることは決してなかった。彼女たちの世話をしたのは、民間療法を行う助産師や乳母だ。
初期ロマノフ朝の皇室の人々はなぜ病気がちだったか?
歴史家イーゴリ・ジミンが書いているように、初期ロマノフ朝では、皇室の人々の主な病気は2つあり、感染性結核とくる病だ。後者はふつう、足の湾曲と骨の痛みという形で現れる。これは、若き皇帝の免疫力が弱く、栄養状態も悪く、ビタミン不足であることを意味する。だが、事実上ロシアで最も富裕な家族で、子供たちの扱いがこんなに劣悪だったのはなぜか?
答えは同じで、要するに、ナンセンスな生活習慣だ。まず、ツァーリの子供たちの生活だが、5歳になるまでは、ツァーリの子女は、男子も女子も、宮廷の女性専用の部屋にいた。新鮮な空気が必要なのに、皇室の人々は誰かに子供たちを見られるのを恐れていたので(つまり、いわゆる「邪視」を怖がっていた)、窓は閉ざされていた。
しかも、部屋は常に暖房されていた。壁と床は、熱を節約するために布で覆われていた。ベッドも、布や毛皮で裏打ちされており、赤ちゃん自身も、毛皮の毛布の下で、羽毛や枕にしっかりと包まれていた。赤ちゃんのときにしっかりとくるまなければ、体が曲がってこぶを出して成長すると考えられていた(荒唐無稽だが…)。
子供たちは多くの僕たちに囲まれていた。乳母、保母、夜勤看護師、小間使い、洗濯と裁縫の担当…。しかし、彼女たちは本当に子供の健康に配慮していたと言えるのか?
歴史家ヴェーラ・ボコワは、皇室の子女に関する、部屋務めの使用人の日常の仕事をこう説明する。
「身体のほくろの数と場所から、子供の運命を予測する。揺りかごを月光の直射から遠ざけて、睡眠を妨げないようにする。睡眠中の子供が誰の眼にも触れないようにする。邪視から守るために、子供の耳の後ろに煤を塗る。新顔に会う前に、帽子の下の頭に塩を少し振りかける…」
明らかに、これらはすべて、幼い皇子、皇女が本当に必要とした健康上のケアからはかけ離れていた。
子供たちには運動が必要だったのに、皇室にとってふさわしくないというので、ゆっくり歩くことを強いられた。走ったり、叫んだりすることは禁じられた。それで子供たちは、荘重に、あるいは鈍重に振る舞うことに慣れていた。
子供たちは十分栄養をとらなければならなかったのに、ビタミンCがひどく不足していた。17世紀の交易は依然、輸送にひどく時間がかかる一方、モスクワは冬が7~8か月も続く北方の都市だったから、新鮮な果物がツァーリの食卓に並ぶことは滅多になかった。
旧アストラハン・ハン国の地域のスイカだけは、新鮮な状態で運ばれてきたが、正教会は、新鮮なスイカを怖がり、禁止した。理由は…洗礼者ヨハネの斬首された頭に似ているから!そのせいで、スイカは塩漬けにされ、大半のビタミンが失われた。こうしたことがどんな結果をもたらしたか?
1627年、ロマノフ朝初代ツァーリ、ミハイル・フョードロヴィチは、父親にこう嘆いている。「私は、自分の足で歩くのが難しくなりました。私は椅子に座らされて、馬車に乗せられたり、降ろされたりしております」
彼は当時31歳だった!彼の孫、フョードル3世も同じ病気にかかっていた。彼は21年間の短い生涯においてほとんど歩くことができなかった。初期ロマノフ朝のツァーリの遺体を化学分析したところ、この病気がくる病だったことが証明されたと、歴史家ヴェーラ・ボコワは書いている。
ピョートル大帝(1世)もまた、その人生最初の数年間は同様に育っており、健康は完璧にはほど遠いものだった。彼の免疫系の改善を助けたのは、おそらく、彼が少年時代から行った軍事演習だったろう。
とにかく、こんな状況であったから、ロシア皇室では、後継者がまともに生まれ育つまでには、長い年月を要した。そのためもあり、18世紀はクーデターが頻発し、既に成人していた人物が横から権力を奪取し、帝位に就いたわけだ。
エカテリーナ2世とイギリス式育児
1754年、将来のパーヴェル1世が、皇太子時代のピョートル3世と妃エカテリーナとの間に生まれた。
パーヴェルは生まれるとすぐに、大叔母に当たる女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの部屋に連れていかれた。パーヴェルは、待望の正当な後継者であり、ロシアの未来とみなされていたので、その健康と幸福は国家の優先事項だった。
しかしエリザヴェータは、自分が昔ながらの方法によりモスクワで育てられたので、それにしたがって、赤ん坊のパーヴェルも扱った。母親のエカテリーナ2世は次のように回想している。
「息子は、本来あり得ない問題で、文字通り窒息せんばかりだった。彼は、非常に暑い部屋で、フランネルのおむつをして、黒いキツネの毛皮で覆われたベッドに横たわっていた。顔から全身に汗が流れ、その結果、成長すると、ちょっとした微風で風邪をひき、体調を崩した」
基本的に、パーヴェルの健康は、初期ロマノフ朝のツァーリたちと同様の問題があった。また、彼の胃は、早くも子供の頃からすっかり損なわれていた。彼は、食事を拒んだが、乳母は強引に詰め込んだ。彼はまた乳糖不耐症で、肉を食べるのに苦労した。これは彼の生涯にわたって続いた。
エカテリーナは、息子が早々に健康を失うのを見てショックを受けたようだが、女帝エリザヴェータの方針に反対することはできなかった。
エカテリーナがやったことは、自分の孫であるアレクサンドル(1777年生まれ)とコンスタンチン(1779年生まれ)をはじめ、パーヴェルとその妻マリア・フョードロヴナの子供たちの育て方を一変させることだ。
エリザヴェータがパーヴェルに対してしたように、エカテリーナは、アレクサンドルとコンスタンチンを、自分の監督下に置いた。しかし彼女は、厚着や食べ過ぎを許さなかった。彼女は、いわゆる「イギリス式育児法」の信奉者だった。これは、ひ弱で病気がちなスミレみたいな人間ではなく、健康な紳士を育てることを目指すものだ。
エカテリーナは孫たちについてこう記している。「アレクサンドルの小さなベッドは、彼はゆりかごも乗り物酔いも知らないので、天蓋なしの鉄製だ。シーツで覆われた革のマットレスに寝ており、枕と英国製の軽い毛布を用いる。生まれて以来、健康であれば、毎日入浴する習慣だ」
アレクサンドルとコンスタンチンの部屋は、摂氏19度までしか温められず、空気を新鮮に保つために、大きなシャンデリアではなく、数本の蝋燭で照らされていた。
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ウールの水着を着た孫たちは、離宮ツァールスコエ・セローの池で水遊びをし、祖母を喜ばせた。また、彼らは身体を使った作業に慣れてもいた。ロシアでは、貴族は肉体労働を避けていたから、目新しかった。
アレクサンダーとコンスタンチンは、木を鋸でひいたり切ったりし、絵の具を混ぜて塗り、布張りしたり、薪を切ったり、耕したり、刈り取ったり、馬を操ったりと、いろんなことを学んだ。
また、少年たちは言語に興味を示した。アレクサンドルは、6歳になるころには、ロシア語と英語で話し書くことができた。
しかし、少年たちは両親から引き離されたわけではなく、定期的に会っていた。パーヴェルは、息子たちの軍事教育と演習を監督し、絵画と彫刻が好きな母フョードロヴナは、美術と絵画を教えた。そのおかげで、彼らは後にどちらも上手になった。
しばらくして、パーヴェルとマリアの間にニコライ(1796年)とミハイル(1798年)が生まれると、彼らも、エカテリーナ式の方法で育てられた。その結果、パーヴェルの子供たちは、おそらくロマノフ家のなかでは最も健康だった。
多少の変更はあるものの、パーヴェルの子供たちが育てられた方法は、その後のロマノフ朝の育児法も規定した。厳格さ、水浴、運動がこの方法の中心をなした。ちなみに、詩人ワシリー・ジュコフスキーが考案した日課を挙げておこう。彼は、皇太子アレクサンドル――将来のアレクサンドル2世――の家庭教師を務めていた。
- 午前6時 起床
- 午前6時~7時 祈祷、朝食、来る一日の準備
- 午前7時~9時 授業
- 午前9時~10時 休憩、訪問
- 午前10時~12時 授業
- 午後12時~午後2時 散歩
- 午後2時~3時 昼食
- 午後3時~5時 休憩、遊戯、散歩
- 午後5時~7時 授業
- 午後7時~8時 体操または遊戯
- 午後8時~9時 夕食
- 午後9時~10時 一日を振り返り、日記を付ける。
こういう日課だ。驚くべきことだが、たぶん皇室の子供たちは、ロシア帝国で最も忙しい子供の部類だったかもしれない!