イワン雷帝の末子、ドミトリーの奇怪な死

ドミトリー皇子

ドミトリー皇子

Sergei Blinkov
 少年はわずか8年しか生きなかった。そして彼は、生前よりも死後において、その奇怪な死にざまでより有名になった。イワン雷帝(4世)の末子、ドミトリーの死の謎は、今日にいたるまで未解決のままだ。

 棺が開かれると、人々は、少年の遺体が腐敗していないのを目の当たりにし、また、非常な芳香が教会の内部を満たすのを感じた。少年の右手は、クルミを握っていた。人々は畏敬の念に震えた。

 これはまた、ウグリチに住んでいたドミトリー皇子が、実際に1591年に亡くなり、偽ドミトリー1世などは僭称者にすぎぬことを証明するものだった…。

ドミトリー皇子の棺

 しかし、この儀式の数日前に時間を巻き戻そう。それは1606年のことで、ロシアは「スムータ(大動乱)」として知られる大混乱のさなかにあった。

 ロストフ府主教フィラレート(1553~1633)が、大貴族出身のツァーリ、ワシリー・シュイスキーによってウグリチに派遣された。フィラレートは、イワン4世の末子、ドミトリー・イワノヴィチ(後に「ウグリチのドミトリー」として知られることになる)の遺体をモスクワに運ぶ任を委ねられていた。

フョードル・ロマノフ

 ドミトリーの遺体はモスクワに運ばれ、モスクワのクレムリンにあるアルハンゲリスキー大聖堂に埋葬された。そこで、遺体は腐敗していないと、宣言された。

 遺体に奇跡が起きたとの噂が広まり、人々は自分たちの病気を癒してもらおうと、大聖堂に群がり始めた。しかし、ある人がドミトリーの棺のすぐそばで亡くなると(その状況には不明瞭な点があったが)、ドミトリーの遺体へ近づくことは制限された。

 イワン雷帝の最後の妻、マリア・ナガヤ(1553~1611)がモスクワに着いて、実際の遺体を目にすると、彼女は数時間にわたり絶句し、棺が閉じられたときにようやく、確かに息子の遺体だと言った。これは当然、遺体の真贋について疑惑を呼んだ。

 こんな噂が流れた。ウグリチに到着すると、ロストフ府主教フィラレートは、ロマンという名の10歳の少年を殺し、棺にその死体を納め、あたかも皇子の遺体が腐敗せずに天の「祝福を受けた」かのように見せかけた、というのだ。

 ちなみに、フィラレートの俗名はフョードル・ロマノフ。その息子が、ミハイル・フョードロヴィチであり、1613年にロマノフ王朝の初代ツァーリとなった。

 だから、噂の真偽は別として、フィラレートがドミトリーの遺体をモスクワに運んだことは、彼自身の利益にもかなっていたわけだ。ドミトリーのなりすましはすべて、インチキだと証明され、フィラレートの一門が権力を握る障害であることをやめたから。

 それにしても、ドミトリー皇子とは何者か?なぜ彼はそれほどの重要人物だったのか?そして、彼はどのように死んだのか?

 
「不法な」跡継ぎ

ドミトリー皇子

 イワン雷帝の末子、ドミトリー・イワノヴィチは、雷帝の長兄と同名だった。その長兄、ドミトリー・イワノヴィチ(1552年10月~1553年6月26日)は、ロシア最初のツァレーヴィチ(皇子)でもあった(父の雷帝は、ロシアの初代ツァーリである)。

 しかし、ロシア人はふつう、死んだ息子の名を、その弟につけるようなことはしなかった。不幸を恐れたからだ。では、雷帝はなぜしきたりを敢えて破ったのか?

 ドミトリーの母親、マリア・ナガヤは、雷帝の6番目(または7番目)の妻で、1580年に結婚している。雷帝はマリアより23歳年上だった。ロシア正教会の教会法によると、この結婚は不法であり、生まれた子供は庶子とみなされた。

 雷帝の彼女以前の妻たちはどうなったのか?幾人かは毒殺され、また一人は、つまりアンナ・コルトフスカヤは、修道院に追放された。

 問題は子供たち、つまり跡継ぎにあった。1580年の時点で、雷帝には2人の息子しかいなかった。イワン(1554~1581)とフョードル(1557~1598)で、どちらもアナスタシア・ロマノヴナ(1530~1560)から生まれた。彼女は、雷帝の最初の、そして最愛の妻であり、長男ドミトリーの母親でもあった。

 次男のイワンは1581年に亡くなった。父、雷帝が撲殺したという風説が流布しているが、証拠はほぼ皆無だ。いずれにせよ、雷帝は切羽詰まった状況に陥った。三男フョードルも、奇妙な病気にかかっていたからだ。健康な跡継ぎがいなければ、リューリク朝は存亡の危機となる。

 そんなとき、1581年10月に、マリアはドミトリーを出産した。1552年の同月に長子ドミトリーは生まれている。で、雷帝はおそらく、この男児にすべての希望を託したのだろう。庶子であろうとなかろうと、この男児が最後の相続人なのだ…。

残酷な子供の死

ドミトリー皇子のウグリチの宮殿

 雷帝が1584年に亡くなると、次のツァーリになったフョードルは、ドミトリーを後継者として認めなかった。ドミトリーは、ツァーリの非嫡出子、庶子として扱われた。

 ドミトリーとその母親は、モスクワからウグリチに追いやられた。イギリスの外交官ジェローム・ホーセイは、こう記している。

 「元皇后には従者が付き添い、ドレス、宝石、食べ物、馬などが荷造りされた」

 幼いドミトリーは、ウグリチの公として暮らしていた。フョードルはまた、ドミトリーとその母親の行動を監督するために、高官のミハイル・ビチャゴフスキーを派遣した。

 同時代の人々は、ドミトリーの異常に残酷な性格に注目している。在ロシア・イギリス大使、ジャイルズ・フレッチャーはこう記している。

 「幼時よりすでに、父、雷帝のあらゆる資質が現れ始めた。少年はこんなことを楽しんでいた。羊などの家畜が屠殺されるさまを見物する、喉が切り開かれて血が流れるのを眺める(子供はふつう怖がるものだが)、そしてガチョウや鶏を死ぬまで棒で撲る…」

 ドミトリーは、1591年5月15日に死んでいるのが発見された。ウグリチの宮殿の中庭で、喉に傷を負っていた。しかし、そのとき周りには誰もいなかったし、事件の目撃者もなかった。

スヴァイカ(金属棒)と輪

 ドミトリーが生前最後に目撃されたとき、彼は「スヴァイカ」をしていた。これは、先の尖った金属棒を地面に突き刺す、ロシア伝統の遊びだ。彼と遊んでいたのは2人の少年で、母親の宮廷所間の息子たちだった。

 ドミトリーの乳母とお付きの女性は、このときどこか近くにいたが、何が起きたのか知らないと言い張った。どうやら誰かが、あるいは何かがドミトリーの喉を金属棒で刺したようだった。

ドミトリー皇子の死

 数分後、ドミトリーの遺体が発見された。母親のマリアは宮殿から庭まで走って来て、遺体を見るや、ドミトリーのお付きのワシリーサ・ヴォロホワを木の棒で叩き出した。一方、乳母のアリーナ・トゥチコワは、突然のてんかん発作でドミトリーが負傷したのではないかと疑った。

 ドミトリーの死を知ると、ウグリチの人々は、警報の鐘を鳴らした。群衆がすぐに集まった。まだ「緊張病」による狂乱状態にあったマリアは、皇子を殺したと彼女が信じた者を、何人か名指した。それは、オシップ・ヴォロホフ(ドミトリーのお付きの息子)、ダニーラ・ビチャゴフスキー(監視役の高官ミハイル・ビチャゴフスキーの息子)、そしてニキータ・カチャロフだった。彼らは、ミハイル・ビチャゴフスキーの仲間で、ドミトリーを監視するために、ウグリチにいた。

 ドミトリーが死んだとき、彼らはいずれも現場の中庭にはいなかったようだが、群衆は彼らを撲殺した。彼らが、ボリス・ゴドゥノフによってモスクワから送り込まれていたからだ。ボリスは、ツァーリのフョードルの義兄として、事実上国を支配していた。

 ドミトリーの遺体は、地元の教会に運ばれた。4日後、モスクワから急遽、調査委員会が到着し、後にツァーリとなる大貴族ワシリー・シュイスキーがその委員長を務めた。



ウグリチ事件

血の上のドミトリー教会

 その後の出来事は「ウグリチ事件」として知られるようになる。委員会は市内の150人以上に尋問した。そのなかには、モスクワの軍人たちの殺害に加わった人々も含まれていた(軍人は、ドミトリーの監視役として派遣された人々だった)。

 委員会の主な目標は、マリアの主張を覆すことだった。彼女は、カチャロフとビチャコフスキーがドミトリーの刺客として送り込まれたと言っていた。

 調査の直後、シュイスキーはモスクワにこう報告した。ドミトリーは「スヴァイカ」をして遊んでいるときに致命傷を負った、と。

 シュイスキーはまたマリアに圧力をかけて、モスクワ軍人の殺害は違法であり、彼女の行動によって扇動された、と認めさせた。それから、彼女は拷問を受けて出家させられ、ベロオゼロ修道院に追放された。彼女の家族は、ウグリチの多くの人々とともに、シベリア流刑となった。死刑となったウグリチ住民も多数にのぼった。

 しかし、1591年のドミトリーの死から15年経った1606年、ロストフ府主教フィラレートが皇子の遺体をモスクワに運んでくると、当時ツァーリになっていたワシリー・シュイスキーは、実は、1591年にドミトリーを殺したのはボリス・ゴドゥノフの一派であると誓言した。

 マリア・ナガヤは、1606年にはもう修道女マルファの名で知られていたが、この説をも受け入れさせられ、棺の中の遺体は息子だと認めさせられた。

殺害ではなかった?…

ドミトリーの死を通知したウグリチの鐘

 ボリス・ゴドゥノフ一派による殺害は、その後、公式の説となり、1613年にロマノフ家が権力を握ったとき、彼らもまたそれを受け入れた。しかし、19、20世紀のロシアの歴史家は、セルゲイ・プラトーノフやルスラン・スクリニコフのような大家を含めて、ドミトリーは殺害されておらず、1591年の最初の調査は正しかったと主張している。

 この説の主な根拠は次の通りだ。

 ボリス・ゴドゥノフがドミトリーを殺したいなら、毒殺するなど、はるかに目立たぬ方法でやれたはずである。イワン雷帝とその息子イワンもおそらく毒殺されており、これが政敵を片付ける一般的なやり方だった――わざわざ白昼に敵を殺す必要はない。

 また、ドミトリーがそれまでに癲癇の発作を起こしたことがあるとの報告は存在しない。しかも、発作を起こせば、手に何も持つことができず、うっかり自分で自分を傷つけることもあり得ない。

 ソ連の犯罪学と法医学の専門家、イワン・クルイロフ(1906~1996)の見解によれば、おそらく、ドミトリーと遊んでいた少年の一人が、誤って金属棒で彼を傷つけ、すぐさま狼狽して逃げた…。

 ウグリチ事件は今日にいたるまで議論されている。

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