ソ連のパスポートの歴史:それは単なるIDではなかった

Malkhaz Davtikashvilli/ TASS、所蔵写真、ロシア・ビヨンド
 居住登録、婚姻状況、勤務地、民族…。ソ連のパスポートにはすべてが記載されていた。なぜこんなにてんこ盛りのIDが必要だったのだろうか?

 2020年の時点でも、ロシアには、ソ連のパスポートを主要なIDとして持っている人が35万人以上もいる。たいていの場合、彼らは年金受給者またはホームレスであり、パスポートの更新を望まなかったか、更新できなかった人だ。しかし正式には、このパスポートはまだ有効である――ロシア連邦の法律はそれを禁止していないから。ソ連のパスポートは、単なるIDではなく、ソ連国籍の象徴でもあった。それはどんな経緯で現れたのだろうか? 

ロシア帝国のパスポート

 ロシア最初のパスポートは、16世紀から17世紀にかけて、外国の使節や商人のためのIDとしてロシアに登場した。いわゆる「国内パスポート」を導入したのはピョートル大帝(1世)。彼の大改革によって生じた、国内の大規模な人の流れを管理するためだった。

 国は、課税対象がどこにあるか知りたかったから、農民、商人、町民は、ロシアを旅する際にはパスポートが必要になった。農民の中には、他の地域で働くために居住地を離れた者がいたが、彼らは、その外見の特徴が記されたパスポートを持っていた。 

 一方、貴族はパスポートなしで旅行することができたが、「駅馬券」(ポドロジナヤ)を取得する必要があった。これは、旅行中に国営の馬と馬車を使用するための特別な書類だ。駅馬券は、政府が国民の動きを管理するうえで役に立った。

「駅馬券」(ポドロジナヤ)

 19世紀末には、すべてのロシア人が居住許可を地元警察で記録されていた。彼らは一度に続けて6ヶ月以上居住地を離れることを許されなかった。将来のソ連共産党、ボリシェヴィキは、これを反ツァーリズム宣伝に利用した。1903年、後のソ連の建国者、ウラジーミル・レーニンは次のように書いている。

 「ロシア社会民主労働党(*ソ連共産党の源流)は、人々の移動と交易における完全な自由を要求する。そして、パスポート制度を廃止することを…。ロシアの農民はいまだに当局によって隷属化させられており、自由に都市に移動することも、新しい土地に移ることもできない。これは農奴制ではないだろうか?人民の抑圧ではないか?」

全国民には支給されなかったソ連パスポート

 1917年のロシア革命により、古いパスポート制度は禁止された。ロシア帝国によって発行された文書は、1923年までにすべて無効と宣言された。しかし国は、国民に関する情報を記録するシステムなしには機能できなかった。現代の人類学者アリベルト・バイブリンは、講義の中でこう述べている。パスポートがないことは、「軍の会計や生産年齢人口の統計は言うまでもなく、食糧配給にも悲惨な混乱をもたらした」と。

 1920年代は工業化と集団化の時代だ。膨大な数の人々が移住し、貧困に陥った。食糧不足と劣悪な居住条件のもとで、人々は、生活し働く場所を見つけるために大都市に流れ込んだ。こうした状況では、ボリシェヴィキ政権は、パスポート制度を再導入せざるを得なかった。その主な機能は、実際には、「良い」国民を「悪い」国民から分離することだった。前者は、国家に利益をもたらす人々で、後者は、帝政時代の役人、警官、兵士、そして何よりも旧貴族だ。

 ソ連のパスポートを持てない人のカテゴリーはたくさんあった。失業者、元クラーク(富農)、司祭その他の聖職者、帝政時代の役人、警官、裁判官などだ。彼らは、パスポート所持を許可されなかった。そのため、これらの大量の人々は、自分の出自、履歴を隠すか、パスポートを取得し都市に住むために何らかの方法を見つけなければならなかった。

 一方、農村では、かつての農民、現在はコルホーズ(集団農場)の労働者は、1970年代~1980年代にいたるまで、パスポートを持っていなかった。なぜだろうか?

 1949年、閣僚会議(内閣)は、すべての16歳以上の人にパスポートを発行する計画について話し合ったが、どういうわけか、改革は保留された。コルホーズの労働者(元農民)にとって、パスポートがないということは、居住地から離れて移動し仕事を見つけることができないことを意味した。

 ちなみに、1920年代には、ソ連の全人口の約80%が農村に住んでいた(ただし、すべてがコルホーズの労働者だったわけではない)。これらの農民たちは、都市に移住し、パスポートと居住許可を手に入れていったが、1974年になっても、人口の約20%はまだパスポートを持っていなかった。 

パスポートは管理の手段にしてそのシンボル

レオニード・ブレジネフのパスポート

 ソ連のパスポートは、1929年に書かれたウラジーミル・マヤコフスキーの詩『私のソビエトのパスポート』により、いやがうえにも知れわたることになった。 

 「わたしは幅広のズボンのポケットから取り出す。限りなき価値をもつこの身の写しを。これを読んで羨むがいい。私はソビエト連邦の市民だ!」

 ソ連の学童は皆、ソ連崩壊後の1990年代にいたるまで、この詩を暗記しなければならず、「鎌と槌」が描かれた赤いパスポートは、ソ連国民の神聖なるIDとみなされていた。

 そのソ連のパスポートは、1932年12月27日に導入された。「16歳に達したすべてのソ連国民は、都市に定住し、各居住地で働き、運輸関係、国営農場、建築現場で働くためには、パスポートが必要である」。ソ連政府の決議にはこう記されていた。

 ソ連のパスポートは、あらゆる面で決定的なIDだった。「民族」を記す欄があり、パスポート所持者の居住登録(プロピスカ)のスタンプ、婚姻状況、社会的地位(労働者、集団農場員、個人農、勤め人、学生、作家、 アーティスト、彫刻家、職人、年金受給者、被扶養者、無職といった「カテゴリー」があった)、さらに職場と学校・大学が明記されていた。

エレーナ・ガガーリナ(ユーリ・ガガーリンの娘)がパスポートを手に入れる

 犯罪歴もパスポートに「刻印」されており、ソ連当局が「犯罪分子」として分類した人物がちゃんとした仕事にありつくのはほぼ不可能だった。だから、ソ連のパスポートは、その所持者を管理、抑圧するのには理想的なIDだった。ソ連は、ロシア帝国と同じように、国民の完全な管理と監督を望んでいた。

 ソ連の警察(かつては「民警」などと訳されていた)には、次のような指示が与えられていた。この指示は1935年にさかのぼるもので、ソ連のパスポート制度を維持すべく、警察の主な任務を規定していた。すなわち、①パスポートおよび居住許可(プロピスカ)なしの居住を防止する、②パスポートなしでの雇用やサービスを防止する。

 1937年以降、パスポートには写真が貼られた。写真の正確なコピーが、「パスポート課」と呼ばれる機関のファイルに保存されていた。この機関は、パスポートの発行を管理していた。

 ついに1974年8月28日に、ソ連で新パスポート発行の決定がなされ、16歳以上のすべての国民に例外なくパスポートを与えることも決められた。こうしてついに、ソ連の農民もパスポートをもらった。1976~1981年に、すべてのパスポートが新しいものに交換されている。

 なお、パスポートに関する新法は、パスポートに印やスタンプを押すことを禁じていたが、犯罪歴に関するスタンプは依然として地方自治体と警察によって作られた。

 ソ連で最後に発行されたパスポートは、ソ連崩壊後にロシアでパスポートが発行された1997年まで使われていた。ただし、ソ連のパスポートの使用を禁止する特別な法律はないので、形のうえではこのパスポートは、IDとして依然有効だ。

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