ソ連当局が国民を長年一か所に「縛り付けた」方法は?

Yuri Abramochkin/Sputnik; Public domain; Russia Beyond
 ロシア帝国の国民は、特定の場所に住むように、住所が固定されていた。1917年のロシア革命後、ボリシェヴィキ政権はいったんはこの制度を廃止したが、わずか数年後に復活させなければならなかった。特定の住まいに登記される制度「プロピスカ」は、なぜソ連国民にとって苦痛だったのか?

 「ソ連時代には、プロピスカのない人は『ろくでなし』だと見なされていて、そのせいであらゆる弊害がその人について回った」。ロシアの政治家セルゲイ・ミロノフ(元ロシア連邦議会連邦院〈上院 〉議長)は、経済紙「コメルサント」に語った。

 「17歳のとき、私は、レニングラード(現サンクトペテルブルク)郊外のプーシキン市で、両親、妹といっしょに、アパートに登記された。やがて、もう大人になったから独立しようと思い、シベリアへ地質調査探検に行くことにしたので、私は母に、このアパートの登記を変えたいと言った。でも、母は賢明で、『あんたがそこで落ち着いたら、登記を変えてあげるよ』と答えた。3週間後、お金もなく腹を空かせて、私は舞い戻ってきた。母が私のプロピスカをそのままにしておいてくれたことに、今でも感謝している」

 ソ連時代には、国が各国民に住まいを与え、パスポートに永住許可である「プロピスカ」がスタンプされた。現在、ロシア連邦には、こうした居住許可はなく、登記のみが行われている(ただし、これもしばしばプロピスカと呼ばれることがある)。

 それでも、現住所が記載されたパスポートは、かつてのプロピスカみたいに見えなくもない。現在のロシア国民は、ある居住地から別のそれに移る場合、3か月以内に新居住地を登録しなければならない。ただし、すべての人がこの規則を遵守しているわけではない。政府機関からはもちろん、オンラインショッピングに際しても、「これはあなたのプロピスカの住所ですか、それとも実際の住所ですか?」と、よく聞かれることがある。

 しかし、ソ連時代には、3日以内に移動について当局に通知する必要があった。これは、休暇に海水浴に出かける場合でも適用された。

 なぜプロピスカは、ソ連の当局にとって、そして国民にとってこんなに重要だったのだろうか?

 
農奴制は実質的に1980年代まで続いた?

市民のプロピスの調べ

 ソ連では、1960年以降に、プロピスカなしで3日以上生活するのは刑事犯罪であり、1年間の拘留もしくは100ルーブルの罰金を科せられた(この金額は、当時の熟練したエンジニアの月給に相当する)。ただし、1967年に至っても、公式の数字によると、ソ連国民全体の37%がパスポートを持っていなかった。なぜだろう?当時のソ連の法律によれば、パスポートは都市、町、都市型集落の住民にのみ与えられていたからだ。

 「都市人口の増加を抑える」ために、地方、僻地の住民は、パスポートを与えられなかった。こうした状況のせいで、地方の人々にはいくつもの困難が生じた。彼らは、就職、結婚、大学や専門学校への入学に問題を抱えていた。郵便で手紙や小包をやり取りするのも大変だった!

モスクワのカザンスキー駅にて農民

 まず第一に、彼らはふつうに旅行することさえできなかった。すでに述べたように、ソ連ではプロピスカなしで暮らすのは犯罪だったからだ。その結果、ほとんどの農村の住民は、自分たちのいる場所にとどまり、コルホーズで働き、移動しなかった。帝政期の農奴制下での農民の扱いを思い出させないだろうか?

 1974年、ソ連政府はついに、国民のすべてのカテゴリーにパスポートを発行することを決めた。ただし、この手続きはやっと1976年に始まって、終わったのは1980年代初めのことだった。それに、パスポートがあっても、ソ連国民は特定の居住地に縛られていた。次にプロピスカがどのように機能していたか見てみよう。

 

パスポートをいったんは廃止したが…

 ロシア帝国では、パスポートは18世紀に導入された。1724年から、パスポートと呼ばれる書類が建設技術を持った農民に配られ、サンクトペテルブルクその他の都市へ、建設工事に呼ばれた。その際に、国の他の地域で働くために居住地を離れた農民は、パスポートを所持していなければならなかった。それには、当人の外見上の特徴も記されていた。

 1803年、農民のパスポートは、警察が管理する「居住証明書」に替えられた。この文書を用いて内務省は、全国の農民の移動を管理し、それぞれの地主のもとに戻るよう監督した。

ロシア帝国時代のパスポート

 1903年、後のソ連の建国者、ウラジーミル・レーニンは次のように書いている。「ロシア社会民主労働党(*ソ連共産党の源流)は、人々の移動と交易における完全な自由を要求する。そして、パスポート制度を廃止することを…。ロシアの農民はいまだに当局によって隷属化させられており、自由に都市に移動することも、新しい土地に移ることもできない。これは農奴制ではないだろうか?人民の抑圧ではないか?」

 当然のことだが、ボリシェヴィキは権力を握るとすぐに、帝政時代のパスポート制度を禁止したが、ただし、人口を管理し、働いていない人々を探し出すために「雇用記録簿」(労働手帳)を導入した。

 1925年には、プロピスカが初めてソ連で導入された。ソ連国民が持っていたIDには、それぞれの定住地が記されていた。

プロピスカのスタンプされた身分証明書、1926年

 1932年には、パスポート制度が完全復活。そこでは、プロピスカが重要な機能を果たしていた。つまり、プロピスカがあれば、国民は各居住地で、医療を含む政府のサービスを受けられた(無ければ受けられない)。

 しかし前述の通り、ソ連の農民の大半は、1930年代にはパスポートを持っていなかった。1980年代に至るまで、農民たちは、村を出て都市で勉強したり働いたりするには特別な許可を得なければならなかった。


アパートのためにいったん離婚して再婚!

モスクワの食糧危機。モスクワのプロピスカのスタンプされたパスポートを提示している男性。

 ソ連には、正式には私有財産がなかったので、国民が住んでいたアパートも実際には国有であり、国がアパートを国民に「分配」した。それがプロピスカにほかならない。当局の主張によれば、人口密度と衛生基準を管理するのが目的だとされた。

 しかし実は、プロピスカは、そのアパートに住んでいることを証明する唯一の書類だった(パスポートにその旨がスタンプされていた)。プロピスカを失うことは、住まいを失うことだった。

 ロシアの女優、アーラ・ドヴラトワは、ロシアの経済紙「コメルサント」にこんなエピソードを話している。

 「結婚後、母は、共同アパート(コムナルカ)の父の部屋に居住登録して、同居を始めた。2年後、母の両親は、それまでのコムナルカから自分たちだけが住む個別のアパートに引っ越すことができたので、それまで住んでいたコムナルカの部屋を母に与えようとした。ところが、当局から拒否されてしまった。『あなたの娘はすでに、夫と同居するために、登記を変更した。国がその部屋を回収する」。それを避けるために、両親はわざわざ離婚して、母はコムナルカの部屋に登記した。そして6か月後に二人は、再婚した」

 明らかに、大都市のプロピスカは、とくにモスクワでは手に入れるのが難しかった。多くの人がその獲得に躍起となった。当然、「便利な結婚」が行われたが、そういう結婚が結局、破綻すると、しばしば大きな「不便」をもたらした。

モスクワのオレーホヴォ・ボリソヴォでの新築祝い

 もっとも、「まともな」結婚でも、レニングラード(現サンクトペテルブルク)やモスクワなどの大都市の男性または女性は、よそ者の配偶者を自分のアパートに登記した。結婚が離婚に終わっても、モスクワに残るうえでは問題なかった。

 ソ連崩壊前夜の1990年、「ソ連邦憲法監督委員会」は次のことを認めた。

 「プロピスカに関する法律は、ソ連領内の特定の場所に居住する許可を得ることを国民に義務付けるもので、国民の移動の自由、そして居住地選択の自由の権利を制限する。これらの制限は…法律から削除する必要がある」

 それでも、1990年代と2000年代のほとんどの期間、プロピスカは依然として大きな問題だった。モスクワとサンクトペテルブルクには、半ば不法な結婚相談所さえあった。これらは、クライアントを首都で登記するために、モスクワのプロピスカを持つ、モスクワ生まれの、架空の夫または妻を斡旋した。

 現在では、居住登録なしで生活すると、罰金(2千~3千ルーブル=30~40ドル)が科せられるだけで、登録の手続きも、ソ連時代よりはるかに簡単になった。

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