ロシア帝国はいかに誕生したか:いつ誰によってどんな経緯で?

Public Domain; Russia Beyond
 ロシア帝国は、世界史上三番目に巨大な国家だった。それはいかに形成されたか?

  ロシア帝国は、その歴史のなかで、東ヨーロッパと北ヨーロッパ、アジア、さらには北アメリカの一部を占めたことがあった。それは人類史上3番目に大きな国であり、2位は大英帝国、1位はチンギス・ハンのモンゴル帝国だ。しかし、ロシア帝国の絶頂時は、むしろそれが誕生する前にあった。その事件は、今や現存しないある建物で起きている。

ロシアを帝国とするためにピョートル大帝は何をしたか?

ピョートル1世の肖像画、A.アントロポフ、1770年

 18世紀初め、欧州諸国のなかにあってロシアはまだ「新参者」であり、その君主である「ツァーリ」の称号は、欧州人にはやや理解しにくかった。

 当時のツァーリ、ピョートル1世は、それまでに何度も欧州人から「ロシア皇帝」と呼ばれてきた。例えば、1698年にイギリスを訪れたときなどだ。実際、ロシアの領土の広さからすれば(とくに欧州諸国と比べて)、ロシアの君主は単なる王以上の存在と思われたが、そう言ってすませられるものでもなかった。

 1706年からピョートルは、ロシア史上初めて、幾人かの臣下(軍司令官ボリス・シェレメーチェフ、政治家ニキータ・ゾートフ、提督フョードル・アプラクシンなど)に「伯爵」の称号を与えた。1707年にアレクサンドル・メンシコフは、ロシアで初めて、その出自によってではなくツァーリの命令によって、公爵(クニャージ)になった。欧州では、伯爵、公爵などの称号を与える権限は皇帝にあった。

 1709年、「ポルタワの戦い」で、ロシアがスウェーデンに大勝。この会戦は、両国がバルト海の覇権をかけて戦った大北方戦争の雌雄を決した。

 翌1710年、英国の駐露特命全権公使チャールズ・ウィットワース(初代ウィットワース男爵)は、スピーチでピョートルを「カイザー」と呼んだ(これは、 19世紀初頭まで存在した神聖ローマ帝国のカイゼルまたは皇帝に類する称号だ)。

 さらに、ピョートルはロシアの国家機関を改革した。1711年に彼は元老院を創設したが、これは、ローマ帝国の上院にはっきり敬意を表したものだ。ロシアの元老院は、高位の文官と軍人からなる評議会で、ツァーリの不在に際しては国家の決定を下す権利を有していた。

元老院の会議

 その後、1718年~1719年に、中央集権国家にふさわしい省庁が設立され、「コレギヤ」(参議会)と呼ばれた。コレギヤは、モスクワ公国時代のプリカーズに徐々に取って代わり、国の機能をそれぞれの機関に分割する。

12の省庁(コレギヤ)の建物、1820年

 こうして、1721年までには、ロシア国家とその君主の新しい地位を公にする準備がすべてなされた。では、それはいかに起きたか?


いつ、どこで、いかにロシア帝国は宣言されたか?

旧至聖三者大聖堂

 ロシア帝国の創設は、1721年10月22日に、ニスタット条約(1721年9月10日にロシア・ツァーリ国とスウェーデン・バルト帝国の間で調印)の祝賀と同時に発表された。この条約により、大北方戦争は、ロシアの決定的な勝利で終わる。

 この条約でスウェーデンは、エストニア、リヴォニア、イングリア、フィンランド南東部のロシアへの割譲を認めた。ロシアにとって、これは極めて重要な勝利だった。戦前には、スウェーデンは、欧州最強の軍事大国の一つだったが、今やロシアは大勝利の果実を享受する。

 ロシア帝国皇帝ピョートルを宣言すべし――。この問題は、1721年10月18日、つまり厳粛な式典の4日前に、「聖務会院」により、初めて正式に提起された(聖務会院は、ロシア正教会の管轄機関で、「宗務院」、「シノド」とも呼ばれる)。

 聖務会院は、「ピョートル大帝、祖国の父、および全ロシアの皇帝」の称号を受けるようにピョートルに「懇願する」ことを決めた。

 10月19日、この決定は元老院に通知された。10月20日、アレクサンドル・メンシコフ公爵は、この決定をピョートル自身に上奏する。ピョートルは、この称号を繰り返し辞退したと伝えられるが、最終的に同意を与えた。

 10月22日、サンクトペテルブルク最初で最古の教会である旧至聖三者大聖堂で、厳かな式典が執り行われた(この聖堂は1933年にソ連当局により破壊された)。式典では、千人を超える高位の軍人と文官が集まり、バルト艦隊の125隻のガレー船が、ネヴァ川の至聖三者広場近くに集結していた。

トロイツカヤ広場

 控えめな飾りつけのなされた、小さな木造の聖堂の中で、ピョートルは皇帝の称号を受けた。教会での礼拝の後、一等文官(基本的に外相に相当する地位)のガヴリール・ゴロフキン(1660~1734)が、元老院、聖務会院、およびロシア・ツァーリ国の全臣民を代表して演説し、ピョートルに皇帝の称号を受けるよう乞うた。

 ピョートルはこれに同意し、わずか三つのセンテンスからなる簡潔な演説をした。彼は、スウェーデンに勝利したことを神に感謝し、ロシア将兵にさらなる鍛錬を促して、こう結んだ。

 「神ご自身が我々の前に示し給う普遍的な善と利益に向けて、働くべきである。…そうすれば、国民は安んずるであろう」

 ピョートルの称号がツァーリから皇帝に変わるとともに、妻もまたツァリーナから皇后となった。また、国章におけるツァーリの冠は、皇帝の冠に変更された。

 式典の後、大祝賀会が続き、花火が3時間近く打ち上げられた。これは、ピョートル自身が組織、担当した。彼は、朝3時まで招待客といっしょに飲み、祝賀会そのものはさらに1週間続いた。

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