ピョートル「大」帝は何が偉大だったのか

Getty Images、ロシア・ビヨンド
6月9日は、ピョートル1世の誕生日。初代ロシア皇帝が今日まで卓越した政治家として記憶されている5つの理由を挙げよう。

 ツァーリ・ピョートル(1672年〜1725年)は並外れた人物だった。少年時代はじっとしていることができず、早足で歩き、大声で話し、常に動いていた。成長すると背が非常に高く、非常に屈強な男になり、臣下に恐怖を覚えさせた。ピョートルは並外れた機転の良さを示したが、一方で気性は激しかった。彼は傑出した軍司令官であり立法者であったが、酒豪であり、逆らう者は誰であろうと破滅させかねなかった。 

 だがピョートルが大帝と呼ばれる所以は彼の性格ではない。1721年、ロシア元老院がピョートルを初代ロシア皇帝に任命し、彼を「大帝」と称したのは、政治家としての際立った功績のためだった。

1. ロシア貴族を作り、国に奉仕させた

子供時代のピョートル1世

 17世紀末までにロシアは危機的状況に陥った。理由の一つが、公職が生得権に基づいて得られていたということだ。ボヤーレの子供だけがボヤーレになり、高位の軍司令官や政治家の役職を占めていた。当然、これらの人々が必ず才能があって勇敢だとは限らない。ピョートルはこの慣習に終止符を打った。非常に厳しい方法で。

 1698年、ピョートルは元近衛兵のストレリツィ(銃兵)を、政権転覆を図ったかどで処刑した。これに伴い、(クーデター未遂に参加した)多くの高位のボヤーレが役職を解かれた。1701年、ピョートルは、土地を所有できるのは国家に奉仕している者だけだと定めた。奉仕をやめれば、土地と農奴を奪われる。またピョートルは、貴族の正規名簿を導入し、軍や役所に勤務できる全貴族の登録に役立てた。

 最後に、ピョートルは貴族の出ではない人々であっても、武勲を評価して貴族に任命し、ヨーロッパに倣って彼が導入した男爵や伯爵といった爵位を与えた。ピョートルは貴族を世襲にし、すべての貴族が15歳から国に仕えなければならないと決めた。こうすることで、ピョートルは18世紀以降ロシアを偉大な国にした貴族を作り上げた。

2. ロシアで最もヨーロッパ的な街サンクトペテルブルクを築いた

サンクトペテルブルク要塞の建設

 古来の裕福なボヤーレはモスクワやその周辺にいた。ピョートルは、彼の作った新しい貴族が交流し、競い、新たな社会ネットワークを作ることのできる新しい大都市が必要だと理解していた。同時に、ロシアにとって、海の玄関を作り、ヨーロッパとの新たな交易路を確立することが喫緊の課題だった。

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 1703年にサンクトペテルブルクをイングリア(フィンランド湾南岸沿いの地域)の沼地に築くことは、これらの目標を一挙に達成するアイデアだった。モスクワは「古都」としての重要性を失わなかった。ピョートル以後のすべてのロシアのツァーリは、モスクワの生神女就寝大聖堂で戴冠した。だがサンクトペテルブルクは、その創建者が計画したように、ヨーロッパ風の街並みになり、ヨーロッパ風に整備された。こうしてピョートル治世のもう一つの重要な目標も達成された。

3. ロシアがヨーロッパとつながりを持つようになった

ボヤーレの顎鬚切り

 一般に考えられていることに反し、ピョートルは顎鬚を「禁止」しなかった。ロシア人の大半は農奴で、田舎に住み、顎鬚を生やしたロシア人的な容姿は変わらなかった。だが都市では、ピョートルは顎鬚を生やし続けたい者に高額の税を払わせた(聖職者を除く全市民に適用された)。また市民が伝統的なロシアの衣装を着用することを完全に禁じた。 

 ピョートルは、ヨーロッパとロシアのつながりを強めるには、ロシア人はより「ヨーロッパ風」の姿にならなければならないと理解していた。ロシアの商人、法学生、学徒がヨーロッパの街に行っても服装で目立たないようにするためだ。そこでピョートルは、全市民にヨーロッパ風の衣服を着るよう命じた。 

 またピョートルは、ロシアを外国人だらけにした。外国人は造船に携わったり、軍隊に服務したり、学問を教えたり、商社や工場、製粉工場を作ったりして働いた。同時に、ピョートルは、多くのロシア人を留学させ、自らも1697年から1698年に留学した。だがピョートルは、ヨーロッパ人と交友関係を結んだだけではなかった。彼は大北方戦争で当時最強のヨーロッパ国家、スウェーデンと対戦したのだ。

4. ロシアをヨーロッパの軍事大国にした

ハンゲの海戦

 大北方戦争(1700年〜1721年)では、スウェーデンがロシア、ポーランド共和国、ザクセン、デンマーク=ノルウェー連合王国の同盟軍と戦った。戦争はバルト海の制海権とその沿岸地域の覇権をめぐって勃発した。この戦争で、ロシアはイングリアの領土を取り返すことを目指していた。ここは17世紀初頭の動乱時代まではモスクワ・ツァーリ国の領土だった。ピョートルが権力を握ると、ロシアは白海の大きな海港がアルハンゲリスクしかなく、海上交易を発展させるためには、バルト海へのアクセスが不可欠だった。 

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 緒戦、ロシアは1700年11月19日にナルヴァで大敗を喫した。ロシア軍は降伏を余儀なくされ、大砲をすべてスウェーデン軍に奪われた。この一戦でロシア軍の非効率さが明らかとなった。その後、ピョートルはロシア軍の抜本的な改革を行った。新たな編隊、最新の兵器、新たな戦術が、ヨーロッパの司令官や技師の助けによって導入された。

 1704年、ロシア軍はついにナルヴァを攻略した。1709年にはポルタヴァでスウェーデン軍を撃破、1714年にはハンゲの海戦でスウェーデン海軍に勝利し、ロシア初の海上の勝利をつかんだ。戦争は1718年にスウェーデン王カール12世が死去したことで実質終了した。形式的には、1721年のニスタット条約でロシアとスウェーデンの和睦が結ばれ、バルト海地方におけるロシアの領土が確定した。スウェーデンに勝利した後、ロシアはロシア帝国と改称し、ピョートルは皇帝(インペラートル)の称号を得た。軍の改革により、ロシアはヨーロッパ列強の一員へと発展した。またピョートルは、当時先端の法制度も導入した。

5. ロシア国民の生活のあらゆる面を包括する法制度を作った

 武勇や戦術の才に恵まれていたことに加え、ピョートルは立法の天才でもあった。彼の監督下で、ロシアに新法と国家制度が築かれた。政府は、省の前身であるコレギア(参議会)という形で具現化された。元老院は(皇帝に次ぐ)最高司法権力として機能した。ロシア正教会の上層部は国家に従属し、1721年に設置された聖務会院は、ピョートルが廃止した総主教に代わって教会を取り仕切る「俗」政府として機能した。

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 ピョートルは自ら数々の勅令を出した。顎鬚から、服装の様式、公共空間でのマナーまで、ロシア人の日常生活を細部まで規定するものが多かった。ロシア人女性が煤でお歯黒をすることを禁じ、市民に専用のごみ捨て場にごみを埋めることを教え、収穫の際には小鎌の代わりに大鎌を使うよう命じるなどなど、内容は多岐に渡った。ピョートルは生活の骨組みを研究し、自身の考えに従ってそれを改造していったのだ。実質的に彼の改革がロシアを形作り、1917年まで大半が効力を保っていた。

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