ロシア帝国の売春事情は?

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 ロシアでは、ピョートル大帝(1世)の治世まで、常設の売春宿、娼館はなかった。彼はロシアで初めてそれを法的に禁止した人物だが、すると、逆にそれは現れてきた。エカテリーナ大帝(2世)は、娼婦たちのことをいかに配慮したか?売春を合法化したのは誰か?ロシア帝国の娼婦たちはどんな生活を送っていたか?… ロシア帝国の売春事情を見てみよう。

 「僕のところに来てくれ。君が欲しい。君も僕が欲しいだろう」。こうあけすけに、かつ現代風に、ミキータは自分が惚れ込んでいたマラニアに書いている。しかし、これが書かれたのは、13世紀の自由なノヴゴロド共和国においてのことだ。ノヴゴロドは当時、ヨーロッパの国と言ってよかった。

 一方、ピョートル大帝(1672~1725)以前のモスクワ公国、それを引き継いだロシア・ツァーリ国では、女性たちは、東方の慣習により、夫に従属しており、セックスについて語ること自体がタブーだった。

 また、ピョートル以前のロシアでは、ロシア正教会が生活のあらゆる領域に入り込んでいた。正教会の上層部は政治に影響を及ぼしていた。農村では、司祭が権力の唯一の「常駐代表者」であることがしばしばだった。

  教会は姦淫にくわえ、淫行(婚外交渉と婚前交渉)を禁じた。そして、男女の「不貞」に対する扱いは不平等だった。教会によれば、男が「不貞」とみなされたのは、既に結婚している男がほかに女性を囲い、「第2の家庭」を作った場合だけだった。しかし女性の場合は、姦淫について思っただけで既に不貞だった…。

 そもそも、姦淫、淫行のやりようがなかった。富裕な女性は、警護と召使の監督の下で御殿に住んでいた。一方、町民と農民の女性は、日々の暮らしに追われ、子供と親族に囲まれていた。これが、性差別が行われていた中世ロシアの実情だ。

 こういう条件下にあったので、ロシアにはプロの売春はほとんどなかった。もちろん、だからといって「淫行」がなかったわけではなく、鞭打たれた「淫女」がなかったわけでもなく、バーニャ(ロシア式サウナ)に「性的サービス」がなかったわけでもない…。

 密かな売春の仲介もあった。これは、「1649年会議法典」で禁止されていたのだが。

 常設の売春宿は、ピョートル大帝時代のロシアで初めて登場した。ピョートル治下の多くの事物が西欧から採り入れられた――この微妙な領域の「知恵」も同様に。

 

「製糸工場」とそこに住む女性

 17世紀後半、ロシアに多くのヨーロッパ人が現れた。彼らは、国家が雇った人々で、船を建造し、兵士と職人を訓練し、連隊と艦隊を指揮した。商人、料理人、使用人、売春婦が彼らに続いてやって来た。当時の欧州では、「金銭で贖われた愛」は、ありふれたものとなって久しかった。おそらく、ロシア最初の売春宿は、モスクワのドイツ人居住区にできた。これは、ヤウザ河岸にあった一種のヨーロッパ街区だ。

 早くも1697年にピョートル大帝は、ヤロスラヴリの長官、ステパン・トラハニオトフに対し、次の指令を発している。これは、あらゆる都市の長官に対する指令でもあって、その中にこういうくだりがあった。

 「諸都市、地区、郡、村で…酒の密売、売春、タバコ販売がなきよう厳しく取り締まれ」

 こういう勅令が出たということは、金銭で性的サービスを受けられる常設の場所が生まれていた証拠だ。

 軍隊にも、売春とともに性病が侵入してくる。既に1716年の軍紀でピョートルは、連隊付きの医師に対しこう命じている。「フランス病(梅毒)に罹った将校」の治療は有料でのみ行うべきこと、と。

 1719年2月13日には、モスクワで娼婦を拘束すべしという勅令が出ている。すなわち、「これらの女と娘は有罪であり、捜索すべきであるが、死刑には当たらず」、「紡績工場」に投獄すべきこと。そこで女たちを、製糸業に従事せしめ、懲役に服す囚人と同等の食事を与えるべし――。

 帝都サンクトペテルブルクで最初にこのような機関となったのは、フォンタンカ166番地にあったカリンキンスキー工場だ。これは、サンクトペテルブルク装飾織物工場に付属していた。女帝エリザヴェータ・ペトローヴナ(1709~1762)の治世では、ここで労働による「矯正」が匿名で行われたことが知られている。「匿名で」というのは、女性には番号が付けられており、マスクを着用して自分の名前と身分を隠す権利があったからだ。

 

エカテリーナ2世とニコライ1世の対売春政策

 エカテリーナ2世は、社会における伝染性および「粘着性」の疾患の蔓延、および公衆道徳の問題に自ら取り組んだ。

 彼女は、「品行に関する勅令」(1782)を出し、それにより、娼館の開設と売春を禁じた。違反に対しては罰金を取り、半年間「矯正機関」、つまり労働をともなう監獄に収容するか、工場に送った。

 これに先立ち1771年にエカテリーナは、有罪判決を受けた売春婦の雇用を拒まぬことを、すべての工場主に義務づけた。それ以前には、地主・工場主は、さまざまな口実をもうけて、彼女らを警察に送り返していた。

 エカテリーナ時代の当局は、売春婦と「ヒモ」を隔離したり追放したりはしなかった。彼らは単に、定期的に国家のために働き、罰金を払うことを強いられた。治世末期にエカテリーナは、すべてのセックスワーカーに健康診断を義務付けていた。また、娼館のために都市の特定の場所を割り当てることを計画したが、それは彼女の死により頓挫した。

 エカテリーナ2世の息子で後を継いだパーヴェル1世は、いわゆる巨大マニアであり、何によらず母親に当てつけたがった。彼は、何の理由か分からないが、モスクワの売春婦を「イルクーツクの工場」に追放するよう命じた。逮捕され収監されていた69人の女性のうち、19人が(主に徴兵された兵士の妻と未亡人だった)、遥かかなたのイルクーツクに向けて出発した。これは、帝政ロシアで売春に対してとられた、現在知られている措置の中では、最も厳しいものだ。

 ニコライ1世(1796~1855)は事実上ロシアで売春を合法化した。以前の法律によると、売春は形式的には禁止されていたのだが、1843年に「医療・警察委員会」が設立され、売春婦を登録した。今や彼女たちは、パスポートの代わりに、「代替鑑札」を与えられた。彼女たちは、健康診断を受け、国への料金を支払った旨を鑑札に記入された。

 1844年には、法令「娼館経営規則」と「娼婦に関する規則」が出された。ニコライ1世は(ちなみに彼は、何人かの愛人がいたことが知られている)、元々軍人であり、 将兵のその方面の実情を承知していた。つまり、長くシンドイ軍務、兵営生活には、女性との付き合いが足りないということだ(すべての都市には、正規軍の常駐の連隊があった)。このツァーリの理屈によれば、人間の本性は排除されるべきではなく、コントロールされるべきだった。

 

ロシア帝国の娼婦はどんな生活をしていたか?

 1844年から、警察の許可を得て、30~60歳の「信頼できる」女性が娼館を開くことができるようになった。そこで働くことが許されたのは、16歳(当時の結婚最低年齢)以上の女性だ。娼館の主人は、娼婦たちの健康を管理しなければならなかった。医師が定期的に巡回し、「フランス病」の兆候が明らかな女性を病院に送り、健康な者には、鑑札にその旨を記入した。

 「ママ」はまた、女性を「過重労働で極度に疲労」させると罰せられた。ちなみに、娼婦登録を抹消しパスポートを取り戻すことも可能だった。その理由は、例えば、結婚、年齢、病気など。親族の身元引き受けも理由の一つだが、その場合、親族は女性の品行を監視する義務があった。

 欧州と同様に、ロシアの都市では、私娼窟や娼館はふつう、特定の地区に配置されていた。この種の建物の最も一般的な特徴は、窓がしっかりと閉じられ、カーテンが下ろされていることだった。隣家の住人たちは、こうした場所から聞こえる騒音について、しばしば警察に苦情を言ったからだ。

  1861年には、昼間はカーテンを下ろし、夜は鎧戸を閉めることがすべての娼館に義務付けられた。また娼館は、「こっそり営業するべし」。つまり、看板や広告を出してはならなかったし、各種学校、教会から300メートル以内に置くのもご法度だったが、各県(現在の州)では、この距離は絶えず短縮された。まあ、いいじゃないか、ビジネスがうまくいっているということだ!?…

 では、お客にどう知らせたかというと、何らかの符号を使った。歴史家スヴェトラーナ・マリシェワによれば、カザン市のある通りでは、窓に置かれたおもちゃの犬がそうした合図になったという。犬が屋外に顔を向けていると、女の子は空いているということだ。

 娼館の中に皇帝の肖像画を掲げることは禁じられていたが、イコンは禁止ではなかった。帝政ロシアのセックスワーカーの多くは信心深く、教会に定期的に通っていた。

 娼館内の家具、調度、設備は、その家の格や地域によって異なった。両首都、つまりサンクトペテルブルクとモスクワの最高級の娼館は、ホテルを思わせた。使用人たち、レストラン、ライブ音楽…。しかし両首都以外の都市では、状況はしばしば厳しかった。

 地方では、娼館の「女の子」の数は常に、ベッドの数を超えていた。つまり、就寝、休憩時間には、女性たちは一緒に寝なければならなかった。彼女たちが十分な睡眠をとることができたのは、教会の祭日と日曜日のみ――それも正午までだ!

 暇な時間、それは主に日中だったが、彼女らはやはり娼館内にいた。窓の前に立つことも、窓から屋外を見ることも、通りを仲間たちと散策することも、法律で禁じられていたからだ。

 また、飲酒が彼女らの日常生活には付き物だった。娼館内にアルコール飲料を置き、販売することは禁止されていたのだが、1870年代に政府は禁止を解除した。禁止が守られたためしがなかったから。

 19世紀半ばにサンクトペテルブルクで登録された娼婦は約2千人だったが、1901年には1万5千人以上が市内の2400軒の娼館で働いていた(これは公娼のみの数だ!)。

 ちなみに、1859年のカザン市では、娼婦は274人、娼館は11軒だが、1898年には35軒に増えていた(娼婦の数に関する記録はない)。

  しかし、娼婦の実数は、登録数をはるかに上回った。登録を望まずに、売春を行う「合唱団の女性」、「ハープ奏者」、「歌手」などがいた。彼女らは、自分たちが働いていた施設に住んでおり、実際に歌ったり、楽器を演奏したりする者も多かった。

 ロシア帝国のセックスワーカーの大多数がこうした「秘密の」売春を行っていた。娼婦の数は、第一次世界大戦の勃発とともに途方もなく増えた。1915年、田舎出身の兵士が前線から自宅に送った手紙に、こんなことが書いてある。「都会はまるで巨大な一種の売春宿と化している」

 1917年のロシア革命前夜、売春に従事していた女性は無数にいた。革命前の社会では、「娼婦を買う」ことは、中世ロシアおよび現代ロシアの観念とは異なり、「放蕩」ではなかった。それは社会に受け入れられていた、男の娯楽の一形態だった。学生、将校、その他の男性市民にとってはありきたりの慣習と化していた。

 しかし、1917年の革命以来、多くが変わることになる。