ソ連では、セックスに関するものが、常に禁じられていた=ヴァレリー・バリキン
ソ連では、セックスに関するものが、常に禁じられていた。セックスそのものは当然ながらあったし、それは今の状況と大差ない。ただセックス関連の話題は、恥ずかしいか無礼だと見なされていた。1986年にソ連のレニングラード市とアメリカのボストン市で中継対話が行われた際、ソ連女性委員会の代表が「ソ連にセックスはありません」と発言したと伝えられているが、実際に言ったのは、テレビにはセックスはない、である。
ソ連政府は1920年代、セックスを取り巻く状況を緩和した。女性の性と解放は、宗教、ギムナジウム(中学校)、ギリシャ語とラテン語の教育、文官の制服、官等表といった帝政ロシア関連のものの廃止などと同様の流れである。それまでは、同性愛者に対する差別もあった。政府は離婚を自由にし、相手に告げることなく別れることも許可した。
その後スターリンが最高指導者になると、中絶が禁止され、同性愛が犯罪と定められ、離婚の手続きが長期化されるなど、厳しい政策が次々と打ち立てられ た。離婚に対する厳しさはフルシチョフ政権の1960年代まで続き、新聞「夜のモスクワ」で離婚を公表しなければならなかった。密かに離婚できたのは、特権階級の一部のみ。
ただし、第二次世界大戦後しばらく、男性が著しく不足したため、養育費は撤廃された。また父の認知は必要なく、未婚女性が出産する場合は、出生証明書に 横線を引っ張るだけで済んだ。その後1950年代に調整を始め、家族の維持を再び強化。養育費を支払わない者に対しては、警察や裁判所がその職場に強制執行令状を送付。養育費は子供1人で給与の25%、2人で33%、3人で50%以上。わざと給与の少ない職場を選び、そこから養育費を払って、こっそり他で収入を得る者もいた。支払わない夫の誰もが、妻の新しい夫が子供たちを養っていると確信していた。
卑猥な写真の需要は高かった。列車内で販売されていたが、売り子はなぜか白ロシア人(ベラルーシ人)と呼ばれていた。売り子は明るい金髪で、頬骨が高く、真っ青な深い奥目の人ばかりで、確かに白ロシア人によく似ていた。耳や口が不自由なふりをし、乗客に近づいて腕をつつき、ポルノ写真を見せて売ってい た。写真は1セット3ルーブル。ちなみに、当時タバコ「スタリチヌィエ」は1箱0.4ルーブル、ウォッカ1瓶3ルーブル、劇場の観覧券は1.5ルーブル。
トランプ・セットに見せかけて販売されていた時は、それぞれの写真にトランプの記号が入っていた。ロシアをテーマとした、手書きの官能小説もあった。そ の後『カリフォルニアの休日』などの小説の英語翻訳や、タイプライターで作成された『カーマ・スートラ』なども出回った。ただし、ソ連の書籍の闇市で販売 されていたのは、カフカ、パステルナーク、ツヴェターエワ、ファンタジー小説、宗教文献などで、官能小説はなかった。
1970年代に入ると、あらすじのあるポルノ写真集や、ポルノ漫画、8mmフィルムのアダルト映画などが出回るようになった。映画は質の良くない外国製で、主にドイツなどから持ち込まれていた。映画は無声映画のようになっていたが、あらすじがわかればいいため、音は特に必要なかった。そう、しっかりあらすじがあったのだ。1960年代から1970年代、1980年代のアダルトビデオのあらすじは、芥子が利いていたり、滑稽だったり、結構おもしろかった。
避妊具は普通に薬局で販売されていた。だがコンドームや避妊ゼリーについておおっぴらに話をすることはなく、男性の多くは薬局でひそひそ話をするか、「箱!」と言うか、「ピラミドンチク(ピラミドンをもじった言い方)」と言いながらウインクをするかの何れかだった。今のように、大きなガラスのショーケースにたくさんの避妊具があって、その質、色、においなどについて薬剤師とオープンに会話をすることは、当時は想像もつかない世界だった。
”箱”は2コペイカ。サイズは3種類。コンドームにはタルクがふりかけられていたため、ワセリンや唾液などを塗らなければならなかった。輸入品が出回るようになったのは1970年代半ばごろ。最初はインド製のみだったが、やがて他の国の製品も現れた。避妊方法は現在と同様、いろいろあったが、中には有害 なものもあった。レモンの小片を”大事なところ”に入れるといいというアドバイスも存在し、実際に皮つきのレモンが使用されていた。酸性だから効果がまったくないとは言えないが・・・。
セックスは全体主義への反抗手段の一つだった。ジョージ・オーウェルは、全体主義国家の課題とは、体をコントロールし、セックスの快楽をなくすことだと書いている。
現在は脱毛、ピーリング、フィットネスといった具合に、女性が自分自身を磨かなければいけないという、新たな性的義務が生まれた。以前は太っている女 性、やせている女性、足のまがった女性など、さまざまなタイプがいて、誰もコンプレックスなど感じていなかったし、ひきしまった体はアスリートや専門家の話だった。ところが現代のロシアでは、人工的な体やフォトショップされた体の写真などに対するあこがれが強く、広告やファッションの全体主義という別の全 体主義が生まれてしまった。
ソ連で異なる状況だったのは、皆が同じように貧しくて、純粋に愛の表現を行っていただけだからというのもあるだろう。だから娼婦も今より少なかったのだ。セックスにお金をかけない時代に、娼婦になるのは難しい。
娼婦がいたのは、郊外の大きな駅のプラットフォーム。足を伸ばして座り、靴底に値段を書いていた。わきを通る人々は、娼婦と値段を見る。モスクワでは3ルーブルと5ルーブルの2種類の価格があり、地下鉄「平和大通り」駅周辺にいた娼婦は3ルーブル札や5ルーブル札からつくった指輪をつけて歩いて、緑と青の紙幣の色で自分の価格を提示していた。
だが娼婦の需要は少なかった。このサービスを利用するのは、水飲み場があるのに、飲料水にお金を支払うようなものだったし、さらにセックスの喜びを求めて、無料で応じる女性も多かったため。
他にも病気の感染の恐怖もあった。淋病や梅毒も広がっていた。梅毒になると鼻が欠けるなどといった、たくさんの噂も存在し、夜遊びをした翌朝、真剣にチェックしている人もいた(実際には起こっても10年後)。病気の問題は不衛生さからも生じていた。
当時は、遊んでいる女性ほどひんぱんに体を洗い、まじめな女性が風呂に入るのは4日に1日などと言われていた。1970年代でも、風呂や台所を共同使用 する区画型のマンション(集合住宅、通称コムナルカ)で部屋を借りている女子学生が毎日シャワーを浴びていると、隣人から娼婦だなどと言われることがあった。当時は娼婦しか毎日シャ ワーを浴びていなかったのだ。
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