ソ連の赤軍が宿敵の白軍と共闘:中国で奇妙な合従連衡

TASS
 ロシア革命後、赤軍と白軍の戦いが国を分断した。ところが、内戦で不倶戴天の仇だった、この両軍が、中国で共闘した珍しいケースがあった。

不俱戴天の仇 

 1917年、ボリシェヴィキ革命がロシア社会を分裂させ、ロシア史上最も凄惨な戦いに突入した。赤軍と白軍(新ソビエト政権を支持する勢力と反対勢力)が戦った内戦で、1千万人以上の犠牲者が出ている。

内戦中、赤軍がカザン市へ突入、1918年

 対立する両勢力の相互の憎悪は、ロシアにおける白軍の敗北で消えたわけではない。白軍は、世界中で反共産主義組織を創り、スペイン内戦、フィンランドの冬戦争、独ソ戦等々で、ソ連と積極的に戦い続けた。

 ソ連の情報機関もまた、手をこまねいていたわけではない。亡命した白軍勢力の活動を注視し、最も重要かつ危険な者を捕らえたり、殺害したりした。

 にもかかわらず、これら不俱戴天の仇同士が、共通の利害を見出したのみならず、同盟者、さらには「友人」にさえなったケースがあった。それはモスクワからははるか彼方の中国で起きた。

ロシア・ファクター

 1920年代初めにロシア東部で白軍が打ち負かされると、その数万の将兵と家族は、中国領に後退し、そこで新たな住処を見つけた。ただそれは、一つの戦乱から別のそれに巻き込まれただけのことだったが。

白軍の歩兵たち、1918年1月

 というのは、1916年以降、中国はいわゆる軍閥が群雄割拠する時代に入っていたからだ。この国は、いくつかの軍閥の勢力圏に分かれ、絶えず抗争していた。

 これらの互いに咬み合う軍閥にとって、白軍は天与の賜物であることが分かった。戦闘能力が極めて低かった中国兵とは異なり、ロシア人将兵は優れた軍事訓練を経ており、高い士気と豊富な戦闘経験を有していた。そのため彼らは、中国各地における様々な軍閥の精鋭エリート部隊となった。

 ソ連の情報機関の幹部、ヤン・ベルジンはこう指摘している。「訓練と規律により、これらは精鋭部隊となっており、敵の精鋭を何度でも倒すことができた」。 

共通の敵

 1920年代末には、蒋介石率いる国民党は、各軍閥からその覇権を一応認められ、国を緩く統一することができた。しかし、この南京国民政府の能力はあまりにも限られており、遠隔地の軍閥の行動をうまく統制することはできなかった。

 1928年に、国民政府は、新疆省(ほぼ現在の新疆ウイグル自治区に当たる)の政府主席に金樹仁(きんじゅじん)を任命したが、彼の無思慮で暴力的な中国化と近視眼的な財政政策のせいで、1931年にイスラム教徒のウイグル人の大規模な反乱が発生。南京政府はこれに対し、為すすべがないことが判明した。

新疆省の政府主席である金樹仁(きんじゅじん)

 しかも蒋介石は、 金樹仁が隣国のソ連に軍事援助を求めたのを知ると、反乱を支持しさえした。こうした状況の中、回族(ムスリム民族集団)出身の軍閥指導者、馬仲英(ばちゅうえい)が、蒋介石により国民革命軍新編第36師師長に任命され、新疆省に向かう。馬仲英は、金樹仁を打倒すれば新疆省政府主席に任ずると約束されていた。

馬仲英(ばちゅうえい)

 中国の他の地域と同様に、ロシア軍は新疆でも「救いの杖」となった。手持ちの部隊が大敗し絶望した金樹仁の呼びかけで、ロシア人は4連隊を編成。反乱軍を倒せるほどの兵力がなかったにもかかわらず、崩壊に瀕していた金樹仁政権を救った。

 ソ連は、新疆が弱体のままとどまることに関心があり、蒋介石の国民党がこの地域で勢力を強めるのを阻もうとした。そこでソ連は、金樹仁政権からの武器弾薬供給の要請に応え、白軍勢力を支援する。しかしこの時点までは、ソ連は直接的な介入は控えていた。

赤軍と白軍の文字通りの共闘

 金樹仁政権に敵対する勢力、および馬仲英率いる第36師団が新疆で進撃するにしたがい、いよいよ多数の地元イスラム教徒が戦列に加わっていった。ウイグル人のほか、キルギス、ドンガン、カザフ、ジュンガル、その他の民族、部族が金政権に反旗を翻した。1932年半ばまでに、同地域のイスラム教徒の約70%が武器を手に取り、冬には、失敗には終わったが、新疆の首都ウルムチの占領を試みさえしている。

 やがて、金政権の反対勢力が、ソ連から新疆にいたる主要な街道を寸断。この街道を通じて、金政権の軍隊へ武器弾薬が供給されていたから、政権崩壊は時間の問題となった。

 1933年4月12日、白軍の支援を受けて、日本の陸軍大学校に留学し、軍事的才能と指導力のある盛世才(せいせいさい)が、失政を重ねてきた金樹仁を追放し、自分が新疆省政府主席の座に就く。盛世才は、ソ連から軍事援助を得るために尽力した。そのために彼は自ら、何度かモスクワを訪れている。

盛世才(せいせいさい)

 結局のところ、盛世才は待望の援助を得た。1933年11月、いわゆる「アルタイ義勇軍」が新疆に入る。ソ連が紛争に直接参加していると見せないために、赤軍兵士は白軍の制服を着ていた。もっとも、彼らは普段の習慣から、上官に対し、「ガスパディーン」ではなく「同志」と呼びかけたが。

 まず、赤軍はソ連から新疆に至る幹線道路を再び支配下に置き、国境に位置するチョチェク市を占領した。その際、赤軍は、白軍の第2コサック連隊と行動を共にした。これは、この軍事作戦における、かつての仇敵との最初の共同作戦だった。

「赤白合同軍」の次の任務は、馬仲英の部隊を首都から駆逐することで、これにも成功する。1934年2月、反乱はついに鎮圧された。反乱の悪夢の再来を防ぐため、盛世才は、ウイグル人に中国人と同等の権利を与えた。

同床異夢

 1934年4月末に、ソ連軍の大部分が新疆を去った。軍事顧問、1千人超の騎兵連隊、重砲、装甲車が首都ウルムチに残った。駐留している白軍も削減。4連隊のうち1つだけが駐屯し続けた。

 結局、かつての仇敵は、単に共闘するだけでなく、ごく平和に共存することもできた。1935年3月26日にウルムチからモスクワに送られた、ソ連の報告書にはこう記されていた

 「赤軍と白軍の両部隊は、平和に共存するのみならず、友好的に暮らしている…。亡命者たちには、赤軍へのかつての憎しみはもうない」。

 ソ連は新疆に強固な地盤を築いた。積極的に武器を供給し、地元の軍隊を訓練し、通商関係を確立し、諜報網を拡大した。こうした事実を当地の白軍は気にかけなかった。それどころか彼らは、自ら進んでソ連の情報機関と接触してきた。そして数千人が「すべてを水に流し」、故国に戻ることに同意した。

 盛世才は、ソ連の忠実な友人だった――1941年にドイツ軍がバルバロッサ作戦を始動させ、ソ連に侵攻するまでは。盛世才は、同盟国、ソ連の窮状を利用して、その保護から抜け出すことに決める。スターリンはこれを忘れなかった。1944年に、蒋介石の国民党がかつて失った新疆を支配し、日和見的な傾向のある盛世才を更迭させたとき、スターリンは一切援助しなかった。

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