ヨーロッパの王妃となったロシア女性は誰?

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 古代から、ロシアの君主――大公、ツァーリ、皇帝――は、ヨーロッパの王国との関係を強める方法を模索していた。その一つが政略結婚だが、もちろん、すべての公女、皇女が外国の王子と結婚したわけではない…。

 他国の君主あるいはその子女との婚姻は、常に強力な政治的ツールと考えられていた。つまり、その国との戦争をなくさないまでも減らして平和を保ち、その一方で自らの王国を強化するのに役立つとみられていたので、王国間の国際結婚は、強力な王朝の間でよく行われた。

 ロシアで最初にこのことをよく理解したのはヤロスラフ1世(賢公、978~1054年)だろう。彼は、キエフ・ルーシの大公でノヴゴロド公でもあり、キリスト教を国教としたウラジーミル1世(聖公)の息子だ。

 ヤロスラフ自身、スウェーデン王オーロフの娘インゲゲルドを妻としていた。オーロフは、キリスト教(西方教会)の洗礼を受けた最初のスウェーデン王だ。ヤロスラフ夫妻には3人の娘がおり、いずれも外国の王、王子に嫁いだ。

 

1. アナスタシヤ(?)・ヤロスラヴナ、ハンガリー王妃

 ヤロスラフ賢公の長女(1023~1074年以降、1094年以前に死亡)の本名は分からない。1038年に彼女は、ハンガリー王子アンドラーシュと結婚した。彼は1046年にハンガリー王になる。彼女は夫とともに王弟ベーラとの間の内戦を戦い、夫が病気で寝たきりになっている間、長期にわたり国を治めた。

 しかしベーラに敗れた彼女は、子供たちと共にバイエルンに亡命した。なお、彼女については、15世紀ポーランドの歴史家が「アナスタシヤ」として言及しており、以来この名が定着した。

 

2. エリザヴェータ・ヤロスラヴナ、ノルウェー王妃

 エリザヴェータ(1025~1067年?)についての情報を含む歴史的資料ははるかに多い。彼女はヤロスラフ賢公の次女で、キエフで贅沢な環境で生まれ育ち、良い教育を受けた。彼女の将来の夫、ノルウェー王子ハーラル(1015~1066年)は、早くから彼女との結婚を望んでいたが、ヤロスラフは最初、娘にとって十分ふさわしくないと考えた。

 ハーラルは自分の真価を示そうとして、ヤロスラフの傭兵になり、軍司令官として仕えた。さらにビザンチン皇帝のためにも戦い、相当な量の略奪品を得て、ヤロスラフに送った。

 ハーラルはまた、自分の軍功を描いた詩を「花嫁」に捧げたが、エリザヴェータは「彼を認めようとせず」、詩を無価値なものとみなした。

 1043~1044年には、別の軍事作戦が成功し、ヤロスラフとビザンチン皇帝コンスタンティヌス9世との平和条約で終わる。その後でようやくハーラルはエリザヴェータと結婚する許しをヤロスラフから得た。そして二人はノルウェーに移り、1046年にハーラルが即位する。

 このハーラル3世は、剛腕で国を治め、「苛烈王」のあだ名を奉られた。文字通り、苛烈な支配者という意味だ。エリザヴェータは、二人の娘、マリアとインゲガルドを産んだが、2年後にハーラルは別の妻(ノルウェーの豪族の娘)を迎え、彼女を見捨てる。この二人目の妻は、二人の息子、マグヌスとオーラヴを産み、この兄弟が後にノルウェーの共同統治者となる。

 その後のエリザヴェータの運命は知られていない。しかし、彼女の娘の一人、インゲガルドは歴史に名を刻んでいる。彼女は、デンマーク王オーロフ1世と結婚し、オーロフ1世の死後、スウェーデン王フィリップと結婚。フィリップは1118年までスウェーデン王であった。インゲガルドの没年は不明だ。

 

3. アンナ・ヤロスラヴナ、フランス王妃

 アンナは、ヤロスラフ賢公の末娘(1032~1089年)で、1051年にフランス王アンリ1世(1008~1060年)と結婚した。

 この結婚で、フランス王は新しい領土を得たわけではないが、多額の持参金をもらった。肝心なのは、アンナが次のフランス王、フィリップ1世(1052~1108年)と、さらに3人の子供を産んだことだ。

 夫アンリの死後、アンナは既婚のヴァロワ伯ラウール4世と恋に落ち、カトリック教会から破門されて、宮廷から遠ざけられる。しかし、アンナは1089年頃に亡くなるまで、王の実母として尊敬されていた。

 

4. エレーナ・イワノヴナ、ポーランド王妃(カトリックに改宗しなかったため、正式には戴冠せず)

 ヤロスラフ賢公の後は長い間、ロシアの公女、皇女は、外国の王、王子と婚姻を結ばなかった。ロシアの地にいよいよ正教が広まり根付いていったため、正教徒の公女はカトリックを公言する王と結婚できなかったからだ。

 時代は下り、外国人と結婚したロシアの皇女が現れるが、彼女自身も国際結婚から生まれている。その父、モスクワ大公のイワン3世(大帝、1440~1505年)は、在位43年に及び、当時の最高記録であった。その彼が、最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の姪、ゾイ(ロシア名ソフィヤ)・パレオロギナと結婚している。

 夫妻の娘エレーナ・イワーノヴナ(1476~1513年)は、リトアニア大公で後にポーランド王を兼ねたアレクサンデル(1461~1506年)に嫁いだ。

 イワン大帝は、娘エレーナが夫の信奉するカトリックに改宗することには断固反対だったが、その一方で、リトアニアとの平和な関係を維持する手段としてこの結婚が必要だった。

 結局、エレーナは正教の信仰を守り、リトアニアの正教徒の擁護者となった。しかし、カトリックに改宗しなかったため、カトリック国の女王として正式に戴冠することはなかった。

  残念ながら、エレーナとアレクサンデルの間には子供ができなかった(エレーナは2回流産している)。1506年、アレクサンデルは死去するが、国家への遺言で妻を守るよう頼んでいる。エレーナは夫の没後もリトアニアで暮らしていたが、1511年に彼女への帰郷を思い立つ。故国では、弟のワシリー3世(1479~1533年)が統治していた。

 しかし、エレーナの運命は厳しいものだった。リトアニアとポーランドの次の統治者、ジグムント1世は、エレーナがリトアニアを去ることを許さず、彼女の弟ワシリー3世の抗議にもかかわらず、逃亡しようとしたエレーナを捕らえた。

 エレーナはリトアニアで(なおも逃げようと試みていた)、36歳前後で亡くなり、ビリニュスに埋葬された。だが、彼女の死は、モスクワ大公国とリトアニア間の戦争のきっかけとなり、モスクワはスモレンスク周辺の多くの土地を獲得した。こうして結局、ワシリー3世は、姉の悲劇的な死に報復した形となった。

 

5. アレクサンドラ・パヴロヴナ、オーストリア大公ヨーゼフ・アントン(レオポルト2世の八男)の妃

 パーヴェル1世(1754~1801年)は、民族的にはロシア人ではなかった。両親、つまりエカテリーナ2世とピョートル3世がいずれもドイツ人だったからだ。そして、パーヴェルの長女アレクサンドラ(1783~1801)も、「血」の上ではドイツ人だった。パーヴェルの妻マリア・フョードロヴナも、ヴュルテンベルク公女でドイツ人である。

 アレクサンドラの祖母、エカテリーナ2世は、アレクサンドラについて計画を練っていた。そして、この孫娘に、最高の宮廷式の教育を施した。孫娘は、エカテリーナが展開していた欧州の王座をめぐるゲームで重要な役割を演じるはずであった。

 1792年、アレクサンドラがわずか9歳のときに、スウェーデンのグスタフ4世アドルフと結婚させて同国の王妃にする計画が着手された。何年もかけて交渉が行われたが、スウェーデンは、アレクサンドラがカトリックに改宗することを主張し、妥協する気はまったくなかった。そのため、結婚はキャンセルされた。

 数年後の1798年、皇帝に即位していた父パーヴェルは、ナポレオンに対抗してオーストリアと軍事同盟を結ぶことを企てた。同盟を強化するために、アレクサンドラ・パーヴロヴナは、最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(1768~1835年)の弟、オーストリア大公ヨーゼフ・アントン(1776~1847年)に嫁ぐこととなった。

 今度は皇女は正教の信仰を保つことが許された。しかし、彼女は幸福からはほど遠かった。ロシアの宮廷女官、ワルワーラ・ゴロヴィナ伯爵夫人に回想によれば、出発前にアレクサンドラは悲しみに暮れ、父帝も悲しんでいた。彼は何度も、娘を見るのはこれが最後だ、と言ったという。 

 パーヴェルの予感は的中することになる。ウィーンでは、アレクサンドラに対する冷ややかなレセプションが待っていた。彼女の改宗に関する議論が蒸し返され、オーストリア宮廷は、ロシアの皇女への軽侮をあからさまに示した。彼女の夫は、兄の前では発言力がなかったため、何もできなかった。

 アレクサンドラが妊娠したとき、彼女の健康状態は良くなかったし、お産もうまく行かなかった。彼女の娘は、出生直後に亡くなっている。そして1801年3月4日、ロシアで父帝パーヴェルが殺害された3日後、アレクサンドラも死んだ。

 

6. アンナ・パヴロヴナ、オランダ王妃

 アンナ(1795~1865年)は、パーヴェル1世とマリア皇后の六女だが、兄であるロシア皇帝アレクサンドル1世の家庭で育てられた。彼女が15歳のとき、かのナポレオンが婚姻を打診してきたが、アレクサンドルは拒否し、フランス皇帝を激怒させた。

 プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世とベリー公(シャルル・フェルディナン・ダルトワ)も、アンナとの結婚に興味を示したが、彼らの希望も斥けられた。

 オランダ王ウィレム2世(1792~1849年)だけが、アンナにふさわしいと見なされた。彼女は1816年にサンクトペテルブルクで彼と結婚する。アンナは、おそらく欧州で最も高額な持参金をもたされ、その目録は46頁もあった。

 政略結婚にはかなり稀なことだが、アンナとウィレムは本当に愛し合っていた。二人は、4男1女に恵まれる。1824年と1833年に夫妻は、ロシアのアンナの親族を訪問している。

 1840年にウィレムは即位し、オランダ王ウィレム2世となった。彼は1849年に亡くなるが、アンナは彼よりずっと長生きし、1853年にロシアを再訪している。1865年に死去。パーヴェル1世の子女のなかでは最も長命だった。

 

7. オリガ・ニコラエヴナ、ヴュルテンベルク王妃

 オリガ(1822~1892年)は、ロシア皇帝ニコライ1世(1796~1855年)とその妻アレクサンドラ・フョードロヴナの次女(第3子)だ。

 オリガは、仲睦まじく互いに助け合う家庭で育ち、一流の文化人から教育を受けた。そのなかには、ホメロスの『オデュッセイア』を翻訳したロシアの詩人、ワシリー・ジュコフスキーや名高い彫刻家イワン・ヴィタリなども含まれていた。

 この記事のヒロインのほとんどがそうであるように、オリガもまさに高嶺の花であり、多数のプロポーズがあったが、彼女または彼女の家族が断った。父ニコライは、誰でも好きな人と結婚するがいい、と許していたが、オリガ自身は、結婚は急ぎません、と言った。

 彼女は情事がいくつかあったと噂され、欧州のさまざまな王族と恋に落ちさえしたが、それらのロマンスが結婚に至ることはなかった。

 1846年、24歳になっていたオリガは(当時としては晩婚だった)、ヴュルテンベルク王国の皇太子、カール・フリードリヒ・アレクサンダー(1823~1891年)と出会った。オリガにとって彼は、又従弟だったが、これは二人が恋に落ち、同年内に結婚する妨げにならなかった。

 しかし、ロシア社会は、結婚の成り行きを注視した。カールの評判が芳しくなかったからだ。二人はしばしば「美女と野獣」と呼ばれた。

 夫妻は、ヴュルテンベルク王国の首都シュトゥットガルトに移った。子供はできなかった。カールが隠そうともしなかった同性愛が原因かもしれない。

 しかし、二人の家庭生活は平穏で楽しいものだったとも言われている。1864年、カールの父が逝去し、カールが即位し、ヴュルテンベルク国王カール1世となった。

 1870年、オリガとカールは、オリガの姪ヴェーラ・コンスタンティノヴナを養女とした。ヴェーラは、オリガの弟コンスタンティン大公の娘だ。

 女王としてオリガは多くの時間を慈善活動に捧げ、シュトゥットガルトの人々の尊敬を集めた。 彼女は、夫より1年長生きし、1892年に亡くなった。

「ロシア・ビヨンド」がLineで登場!是非ご購読ください!